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それから、もうどれくらい経ったろうか? 昼も夜もない世界… 全てが無窮に思えた。寂寥が生まれる。ホームシックが育つ。今ここが何処なのかも解っていない。もう難波船へも帰れないだろう。いや、地上には二度と帰れないと思った。俺は23才だったから、まだ社会をよく知らなかった。海上で起こる数々の出来事も、やがて訪れるであろう未来も波にさらわれ、この奇奇たる環境の中で知らされる事なく俺をのけて、それらは作られて行くのだろう。気概な心で、力を振りしぼって俺は浮上した。しかし、陽の光など見当たらない。上へ上へ登っている筈なのに…。数をかぞえながら上昇したが、一万を超えても外へは出られなかった。永住が余儀なくされて、俺はもう笑う
しか術がなかった。
美和子。もう一度抱きしめたくってたまらない。
美和子ーッ 大声で叫んだが、泡のつぶがたくさん口から出て行くだけだった。
4
心電図は平常に作動し、呼吸はしなやかだった。
「脈拍も異常ありません」
鋭い瞳の看護婦が言った。
そして、その横に、涙をいっぱいためた美和子が居る。そこへ年配の、夫婦らしい男女がドアをノックもせずに、そそくさと入って来た。
「陽一ッ」
女性の方がベットに近づきざまに向かって言った。男の方は軽く会釈をし、すでにそこに居るもう一人の男に喋り始めた。
「先生ッ 息子はどうなんですか?」
医者は少し頭を下げ、お父様とお母様ですねと、言った。
「はい」と、答えた。
「大変お気の毒ですが 彼… 現段階では意識の回復の見込みはついていません。(手を差し向けて)こちらのお嬢さんのお話によると、ホテルのバスルームで転んだらしく、後頭部をかなり強く打った様で、ここに運ばれた時は内出血がひどく、万全の手当てはしましたが、この状態は…」
「と、言いますと?」
「はい。はっきり申し上げますと植物状態という… 脳の中枢神経・脊髄の損傷、しかし心臓は正常に動いている訳ですから… まだお若いのに、本当に気の毒に思います」
皺まじりの手で両目を覆って、男が聞いた。
「それでは、一生このままで?」
「ええ…。彼の体力次第で10年、あるいは20年…」
うつむく医師のメタルフレームのメガネ、白くパリッとした白衣の襟にも悲しみがやって来ていた。
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