四十二 祐天仙之助

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山口一は、深夜の甲州道中を、提灯も持たず歩いていた。 樹木が視界を狭める暗闇のなか、ぼんやり浮かんだ道と、頭上に広がる満天の星だけが頼りだ。 石和の宿場を抜けてしばらくゆくと、笛吹川をわたらねばならぬが、そのような刻限に、渡し舟などは当然あろうはずもない。 笛吹川は、渇水期の九月から五月ぐらいまでは、仮橋を架けていたが、水量が増える夏期は渡船であった。 しかし、梅雨前のこの時期は、さほど増水しておらず、着物を脱ぎ、帯で縛って背負うと、迷うことなく流れに足を踏みいれた。 笛吹川は、下流で富士川と名前をかえる。 日本三大急流と言われている富士川の上流だけに、流れはきつく身を切るように冷たい。 何度か足をとられそうになりながらも、腰まで水に浸かり、なんとか対岸までたどり着いた。 梅雨入りしていたら、とてもわたりきることは、出来なかったであろう。 着物を身につけると、山口は再び歩きだす。歩みぶりには、いささかの迷いもなかったが、気持ちは揺れていた。
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