第1章

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まだ仲が良かった頃の休日、楽人の家に遊びに行ったとき、宗助は庭で洗濯物を干す妻の姿をさも愛しそうに見つめる彼の姿を何度も目にしていた。 宗助の父親との浮気を知っても、彼は妻を許した。 そういうことなのだろう。 そう。楽人は母親の浮気を知らないのだ。 あの、足の細いガラス細工のような息子に、そんなことは教えられないだろう。いや。本来なら自分だって知らなくて良いことだったと宗助は思う。あの時自分が目撃せず大人たちだけで話が進んでいたならば…こんな醜い感情を楽人に抱くこともなかったのに…。 「もう遅い」 教室の片隅で発せられた宗助のつぶやきは、休み時間の喧騒に容易くかき消された…。    ※  ※  ※ 「矢代先生。ここは高等部の理科準備室ですよ? 何の御用ですか」 「おお。ボールが入ってもうてん。取ってんか?」 「またそんな子供みたいな言い訳を…」 昼間、楽人と宗助が授業を受けていた理科室に併設されている理科準備室は、主に化学を専門とする理科教師、雨宮潤(あまみやじゅん)の管轄だ。 本来理科室は火事などの危険性を考えて校舎の一階に作られる。だから何所の学校でもグラウンドが目の前にあるのは珍しいことではなかったが、躾の悪い猫のように気がつけば開いた窓から準備室を覗いてる体育教師には正直驚かされた。 雨宮が赴任してきた年にはすでに、矢代はここの中等部に勤務していた。 一目見たら忘れないほどの長身に人懐こい笑顔 『新人さん? 矢代言います。ほなよろしく頼みます』 と今のように窓から挨拶されたのが事の発端だ。 「よっこらしょ」 「ちょっ…矢代先生! 何してるんです」 「はい。お邪魔しますよ~」 グラウンド側からだとかなり高い位置にある窓を、身をかがめ長い足で軽く跨ぎ侵入してくる。 「お入りになるなら言ってくだされば!」 「入って欲しないから非常出入り用窓の鍵閉めとんのやろ」 「…どうしてそこまでわかっていながら……」 出会った日から矢代は数日と空けずこの準備室に通ってくる。 人好きする性格と巧みな話術、違う教科の教師と親しくなるのは珍しい世界で矢代の存在は異質だったが、決して嫌な印象は受けなかった。 いつしか窓に矢代が頬杖をついている姿が当たり前になり、白い歯を見せながら楽しそうに笑う彼の存在は、そこに無くてはならないものになっていた。 ――そう。
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