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雨宮は一回りも歳上の、この大男に確かな信頼と友情を抱いていた。
――それなのに。
「無理にでも入ってこんと、誰かさんの本音聞かせて貰えんからなぁ」
「悪ふざけは…やめてください」
「そっちこそ…悪あがきはやめたらどうや?」
指先で雨宮のメタルフレームを押し下げ、瞳を覗き込んでくる。
「なにをっ」
羞恥に慌てて身を引き、華奢な指でメガネの位置を直す。矢代は 『別に何もしとらんよ』 と素っ気無く背を向けた。
大きな――背中だった。
いつもジャージ姿で素足にスニーカーを履いている。
若い頃は槍投げの選手だったと聞いた。実業団でも活躍したと。それでも教員免許は大学卒業してすぐ取ったと言っていた。陸上選手は一生続けられる仕事ではないから、その先を考えておいたのだと。
『俺、グラウンドから離れられない性分やから』
そう言って迎えにきた生徒たちになかば引きずられるようにしてグラウンドへと帰っていく矢代を、正直、羨ましいと思った。
ジャージの上からでも広い背中に立派な硬い筋肉がついているのがわかる。――そう思ったら急に恥ずかしくなり、雨宮は俯いた。
落ちた視線の先、着ていた白衣に新しいシミを見つけ、一体いつ付けただろうかと無理やり記憶をたどる。熱くなった頬を気付かれないように。――気付かないように。
「潤」
急に下の名前を呼ばれて雨宮の心臓が跳ね上がった。
「な…に」
「お前…もう…ええ加減にせぇ」
大きな手にグイッと顎を引かれ、雨宮は咄嗟にぎゅっと目を瞑った。
が、一瞬の間を置いてふわりと大きな体に包み込まれ、頬に当たるジャージの感触と人肌の――匂い。
「もう…俺、しんどいわ」
「矢代…先生?」
強引なくせに人一倍優しい抱擁に、雨宮は胸の奥が疼いた。
彼の気持ちを告げられた時と同じように…。
初めは冗談だと思っていた、力強く腕を引かれるまでは。
腕を引かれ、真摯な眼差しに射抜かれ、もう、後には戻れないのだと…知った。
この気持ちを受け入れるか、赤の他人になるか。
今までのように仲の良い友人として接することは出来ないのだと、彼の目が語っていた。
――そんな残酷なことは、望まないでくれと。
「ですから…。お断り…したはずです」
「そんなん…納得できるわけないやん」
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