第1章

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   やっぱり好きやから…   ――3月15日 よそ行きの服装に浮き立つ、父兄たちのざわめき。 今日は、ここ、私立明慶学院中等部の卒業式だ。 式典のために体育館に集合し、パイプ椅子に腰掛けた学生服姿の生徒たち。厳粛な雰囲気が僅かな緊張の糸を紡ぎ、ゆっくりと網を広げるように浸透していた。そして誰からともなく口を噤み、ふとした瞬間、千人を下らない人の詰め込まれた空間がまるで音を吸い取られたかのように静まり返った。 (あ。神様が通った…) クラスでもお喋りで騒がしい時、なぜか急に静まってしまう瞬間があって、そういう時は必ず 『神様が通った』 と誰かが言うのだった。 今日、ここで卒業生として送られる小鳥遊楽人(たかなし がくと) も、この不思議な現象は本当に神様が通ったからに違いないと信じていた。 キョロキョロと当人の姿を求めて辺りを見回したが、その姿はない。流石に神業と言われる術で子供に見られるようなヘマはしないようだと心の内で感心する。と、前に向き直った楽人と目があった長身の体育教師が、自分の胸元をチョイチョイと指差して何事かを知らせようと口をパクパクさせていた。 (あっ…) 朝、教室で配られた胸に付けるリボンを置いてきてしまった。 見れば卒業おめでとうとプリントされたピンクのリボンは楽人以外の誰もがきちんと左胸に付けている。 ――急に襲ってくる緊張感。 自分だけがやってしまったミス。お腹がぐるぐると痛くなるような感覚に式典中トイレに行きたくなったらどうしようと思うと、額にうっすら脂汗が浮かんできた。 喧噪が途絶えピンと張りつめた空気の中、ただひとり緊張感なく壁際を歩いていた先ほどの体育教師が、楽人の耳元にさりげなく顔を寄せた。 「なんや、小鳥遊。リボン教室に忘れたんか?」 「…はい」 「1組は近いし、お前の足やったら2分で戻って来られるやろ」 「取りに行って来ても…良いですか…?」 「ああ。まだ10分くらい余裕あるから、トイレに行ったフリして戻ってこい。担任のセンセには内緒にしよるから」 「…はい」 2分で戻って来いという意味ではなく、10分間で忘れ物と腹痛をどうにかして来いと言われているのが、中学生の楽人にも理解できた。
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