第1章

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今、きっと彼は白い歯を見せて優しく微笑んでいるだろう。 雨宮の好きな、あの人なつこい笑顔。 もし今その顔を見てしまったら…きっと何かが変わってしまうような気がして、雨宮はひたすら瞳を伏せていた。   ※  ※  ※ 押せば堕ちる…それは間違いないだろう。 部室舎の更衣室。汗で張り付いたTシャツを背中から引き剥がすようにして脱ぎ、それで胸と脇の汗を拭った矢代は、ふぅ、と手を止めた。 雨宮は無自覚に恋をしている――。 自分を見つめる瞳にも態度にも、もう間違いない確信があるのに、本人にその自覚がないとは…一体どうしたものか。 近づきすぎると拒絶され、離れれば探されてしまう。 グラウンドにいる間、ずっと雨宮に見つめられていることは気付いていた。――数年前から。 眩しそうに目を細めて、じっと瞳を凝らしているさまが印象的だった。何をそんなに一生懸命見ているのかと、淡い期待を滲ませ疑問に思っていた頃。 『矢代先生。麦茶を飲みにいらっしゃいませんか?』 理科準備室の窓から声を掛けられたのだった――。 そう。ちょうど今日のように夏休みに入ったばかりの蒸し暑い日。 高等部のグラウンドを使っているいくつかの運動部をハシゴし、汗まみれになって体を動かしていた。休憩を取ろうとグラウンドの水道で頭から水をかぶり、これから水を飲もうとした瞬間、声を掛けられ、振り向くと理科準備室の窓から顔を出した雨宮が穏やかに笑っていた。 適度にクーラーの効いた準備室で椅子に腰掛け涼んでいると、大きめのカップに入れて出された麦茶は不思議に甘く、疲れた体に染み入るような心地良さがあった。 地元の関西地方にも、冷やしあめという夏場に飲まれる甘くて冷たい少しトロリとした飲み物があるが、あれほど味が濃いわけではなくすうっとノドを通り抜けていく。これならば水分補給とカロリー補給が一度に出来て、山登りや子供の遠足などには丁度良い飲み物だろう。麦茶に砂糖という組み合わせは、プロのアスリートとして活動していた自分であれば絶対に考えない組み合わせだ。でも、もうただの体育教師なのだから、人の好意を喜んで受けられる。 それがなぜかとても嬉しいことのように感じた。 『美味しかった。ありがとう♪』 素直に礼を言えば、雨宮ははにかんで 「いいえ」 と小さく答え、それ以上の会話を避けるように窓へと視線を移してしまった。
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