第1章

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立ち上がって振り向いたと同時にふわりと香るタバコの残り香。 宗助の手が伸びて楽人の胸元の布地をつまむ。銀色の針が宗助の器用そうな長い指に押されて厚手の布地から顔を出し、金具に留められる。黒い学ランにピンクのリボンが眩しいほど映えていた。 「卒業おめでとう」 その抑揚ない声には感情が感じられず、リボンに書かれている文字を読んだのか、それとも楽人にそう言ってくれたのかわからなかった。 自然と見上げるように宗助の真っ黒な瞳を覗き込むと、無表情のまま、長い指先が濡れた楽人の目元を拭う。 幼い頃、よくそうしてもらっていた記憶が蘇ってきて楽人は切なさに瞳を伏せる。濡れた睫毛を拭うよう瞼の上を親指が押さえ、薄く開いた唇に暖かい吐息がかかるのを感じたときには、――何か柔らかいものがそこに触れていた。 突然の出来事に何が起こったのかわからないながらも、楽人はそのまま大人しくしていた。 抵抗しなければならないような嫌なことは、何一つされていなかったから――。 「…っ」 小さな舌打ちの後、宗助が乱暴に楽人を突き放す。 廊下の向こうから近づいてくる足音に、ベランダから逃げようというのだろう。長い足でひらりと窓を乗り越えながら楽人に振り向く。 「ぁ…」 にべも無くついていこうと楽人が一歩踏み出した時、宗助がニヤリと笑った。 「タカナシ。お前、俺の事が好きだろう?」 (え?) ――冷たくあざけるような声だった。 返事をする間もなく宗助はベランダ伝いに隣の教室へと消え、と同時に教室のドアが開き、矢代がその大きな体をかがめるようにして室内を覗き込んでくる。 「小鳥遊。どないした」 「矢代先生…」 心配して見に来てくれたのだろう。涙目の楽人に驚いた表情をしながらも、矢代の声音はどこまでも穏やかで優しい。 「先生…僕」 ついさっき宗助に言われた言葉が胸に突き刺さってズキズキと痛みを訴えていた。何がどう悲しいのかわからない。 ただ確実に何かが終わってしまった。取り戻せない何かを突きつけられたような気がした。後悔なのか焦燥なのか、高鳴る小さな胸が血を流して悲鳴をあげている。 「どないしたん?」 「助けて…先生。……胸が…痛い」 「小鳥遊…?」 楽人の華奢な背中に指の太い大きな手をあてがいながら、矢代は教室内に残るタバコの匂いと気配を嗅ぎ取る。楽人の繊細な心に誰が傷をつけたのかは確認するまでも無かった。
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