第1章

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矢代は楽人が心配でならなかった。芯の強い男になって欲しいと思い、走る楽しさを教え、自分に自信を持つことを教えた。 しっかり前を見て人前に立てるようになった彼を見たときは、誇らしさよりも正直、安心のほうが強かった。 それでも人間、誰でも一番弱い部分を無くすことは出来ない。 仲の良い幼馴染みだった二人の少年。その相対する思いに複雑な気分になるが、自分が口を挟めることではなかった。 「38度6分。結構あるな。気持ち悪いか?」 「大丈夫です…頭がぼーっとするだけで」 「そっか。ほな、先生、担任のセンセと保健のセンセに知らせに行かなあかんから、一人で平気やな?」 「はい」 いつ見ても安心する矢代の笑顔がカーテンに隠れてから数秒後、静かに保健室のドアが閉まった。とたんに辺りが静まり返り、壁に掛かった時計の秒針がカチカチと楽人を責め始める。 保健室は嫌いだ。いつも世界に一人だけ置いてけぼりにされた気分になる。そしてその度に秒針が楽人を責め続けるのだ。 (宗…ちゃん) 天井の見慣れた模様を視線で辿りながら楽人は久々に触れた幼馴染の顔を思い出す。と同時に胸の奥が締め付けられて喉の方までズクンと鈍い痛みが走った。 彼が触れた唇にはまだタバコの匂いが微かに残っている。 「っ…ふっ…うっ…」 思い出せばまた切なさに涙が溢れてきて苦しくなる。熱に朦朧とする頭に宗助の最後の言葉がこびりついて離れない。 いかにも突き放したような冷たい声で彼は言ったのだ。 楽人の心を抉るように。 ――あんなに優しいキスの後で。 でも幼い楽人にはこの気持ちが何なのかわからなかった。 なぜこんなにどうしようもなく、悲しいのか―…。 だからもう、そのことは考えないようにした。 (眠ろう…) 体育館から遠く聞こえてくる、仰げば尊しのメロディ。 楽人が目を閉じて意識を手放せば、疲れた神経が休もうと眠りを誘ってくる。そのまま引き込まれるようにして眠りについた。 扉の開くような音がした後、涙に濡れた目元を誰かの手が拭うけれど…、もうそれは夢の中なのかもしれないと楽人は思った。 ふわりと漂う唇に残るのと同じ匂いに気付けぬまま、砂糖菓子のように美しくも儚い少年は、深い眠りの底へと落ちていった。
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