scene 29

5/5
1191人が本棚に入れています
本棚に追加
/274ページ
「ごめん」 「謝らないでください」 「そんなつもりじゃなかったんだ」 だったらどういうつもりなのかと、平常心の私なら問いただせたはずだ。 先生の口から飛び出してしまった言葉が冷たく耳に響いて、身体がこわばってしまった。 「だから、大丈夫ですって」 ここで泣き出したなら、先生は抱きしめてくれるだろうか。 それとも、鬱陶しいと思われるのだろうか。考えがまとまらない。 来なければ良かった。 時間が経てば、何もなかったようにまた会えたかもしれない。 今は、このまま何もなかったようにやり過ごせる自信がない。 「出ようか」 「そうですね」 店を出て、先を歩く先生の背中にしがみつきたかった。 素直になれたら、取り戻せるのだろうか。どうしていいのかわからない。 このままホテルに行って抱き合ったなら、何を悩んでいたのだろうと胸を撫で下ろせるのに。そう思っていたときだった。 「瑞乃」 なにか少しだけ覚悟に似たものを伝えるとき、必ず先に名前を呼ぶ。 「また連絡するよ。明日も早いんだ」
/274ページ

最初のコメントを投稿しよう!