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警備会社に事情を説明し、人物照会でもなんでもしてもらえれば、史彦がこの家の主人であることはすぐに証明できるだろう。だがそれでも、近所に気づかれ騒ぎになることだけは避けられない。
戦前から名の知られたこの高級住宅街で、一流企業のオーナー社長である高幡家の親子ゲンカがご近所さんの井戸端会議のネタになることは、あまりにもよろしくない。
「どうすりゃいいんだ、まったく……!」
「坊ちゃんが起きるのを待つしかないですね」
史彦は腕時計を確かめた。時計の針は深夜一時過ぎを指している。
普段、悠理が起きるのは朝の七時だ。
「あと、六時間……」
すべての力が抜けてしまったように、史彦はずるずるとその場に座り込んだ。
「まあ、最悪、八時半になればいつもどおり水元が迎えにくる。会社に行けば予備の鍵もあるし、何とかなるだろう」
「そうですね。坊ちゃんだって朝起きて、おなかがすいてたら、諦めてあたしを家に入れてくれると思います」
美晴も史彦の隣にぺたっと腰を下ろした。
ほかにどうすることもできず、ふたりは窓際に並んで座り、家の外壁によりかかって夜空を見上げた。
「あっ、大変!」
「なんだ、どうした!?」
「坊ちゃん、おしっこって言ってたのに、トイレ行ってない! おねしょしちゃったらどうしよう!?」
「おね……」
体中の緊張を吐き出すように、史彦はひとつ大きく息をついた。
「きみの『大変』は、そんなことか……」
「大変ですよ! 洗濯物は増えるし布団は染みになるし、小学生にもなっておねしょしちゃったって、子どものプライドも傷つくし! それが一番心配です。坊ちゃん、人一倍プライド高いから」
力説する美晴に、やがて史彦はくくく……、と小さく笑った。
「笑いごとじゃないですよ! 旦那さまだって、坊ちゃんのこと叱りつけたり、笑ったりしちゃだめですよ! こういう些細なことが心の傷になっちゃったりするんですから。小学生でもおねしょする子はそんなに珍しくないって、きちんと説明してあげなくちゃ!」
「ああ、そうだな」
笑いながらうなずき、けれど史彦はやがてふと淋しそうに表情を曇らせた。
「だが、それを説明するのは俺ではなく、きみのほうが良いと思う」
「え――」
そんなはずありません、と美晴は言おうとした。
が、月明かりに照らされた史彦の横顔に、続く言葉が出てこなくなる。
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