幕間 四谷奇談

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「嗚呼、我が君たる伊右衛門様。この胸焦がす思いをば、如何に思うて居られましょうや。」 「おお、我が妻たる於岩。大事に思う胸の裡、如何に伝えれば良かろうか。」 相思の心と裏腹に 素直に通じぬこの二人。 言葉は足りず 為すも成されぬ。 背中合わせの褥(しとね)にも ただ夜露のみの濡れ重ね。 「おお、岩や、岩や。此は如何に。」 血に染む袖も構わずに 伊右衛門、岩を強(きつ)く抱く。 「嗚呼、伊右衛門様。我が身を抱いて下さるか。」 今わの際の、その淵に 嬉し涙のひとしづく。 「この温もりを証とし。とうとう我が身は伊右衛門様の、一人妻とを名乗れましょう。」 「これは異なるを我が妻よ。二世の前(さき)から久遠(くおん)の後も、岩より他の妻は居ぬ。己がひとりが、我が妻よ。」 君よ妻よと呼び合いつつも 岩のいのちのともしびは わづかの後に絶え果てぬ。 閉じた瞼に零れ行く 岩の涙に伊右衛門の 流すそれとが交じり合い 場に川と為す 場に川と為す。 「それそう暮れては伊右衛門様、岩殿も迷うてしまいましょう。」 隣家の妻(さい)の袖の言う。 「沈む心も知らずと言えぬ。さりとてそれでは死人に似たる。」 隣家の主の直助の言う。 それでも枯れぬ伊右衛門の 岩を想うて落ちる涙 落ちる涙。 「我が君、我が君。伊右衛門様。」 「誰ぞ我が身を君と言いたる。その呼び名を許したるは我が妻たる於岩のみ。」 夜も更け床に居りし伊右衛門。 声に岩の夢を破られ。 「その岩めが参りまして御座います、御座います。」 「これは現か幻か。幻たれば消えぬを願おう。」 宿世の迷いか仏の加護か。 身起こす伊右衛門、その眼には。 身罷りし筈の於岩の姿。 「幻なれば、これこのような。」 「おお。おお。当に身の在る、於岩じゃ、於岩じゃ。」 抱かれる身に伝わる温もり。 伊右衛門、男だてらにおいおいと。 「我が身の為に、涙に暮れる、愛しき人のその姿、身に余るやら切ないやら。」 「我が妻、我が妻。その身がそれで戻るなら、泣きもしようぞ、泣きもしようぞ。」 それより夜毎の睦み合い。 死して結ぶは皮肉に過ぎぬ。 なれどもそれも逢瀬なる。 夜が明けるまで 濡れそぼる。 ~未完~
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