26人が本棚に入れています
本棚に追加
遠くから、がらがらと牛車が近づく音がする。
鬼道丸は構わずに顔を伏せたままだった。牛車に乗るような身分の高い奴らが、鬼道丸に興味を持つことなどないからだ。
ところが、その牛車は鬼道丸の前まで来ると、ぴたりと車輪を止めたのである。
鬼道丸は驚いて顔を上げた。
鬼道丸の目の前には、綺麗な網代車(あじろぐるま)が一台止まっている。
花菖蒲の襲(かさね)の衣の裾が、清らかな簾の下から覗いているところからして、どうやら女車のようだ。中からは、芳しい香の薫りもほんのりと漂ってくる。
鬼道丸はうっとりとその網代車を見上げていた。
やがて、簾がゆっくりと揚げられ、華やかな幻のようなものが、ふいに姿を現した。
それは、一人の若い姫君だった。
一度も日の光を浴びたことがないと思われるほどに白い面輪。
優しく伏せられた睫(まつげ)の長い瞳。
薄紅の桜の花弁を置いたような、儚げな淡い唇。
漆黒の髪が肩先から流れ落ち、牛車から零(こぼ)れんばかりに豊かに波打っている。
年の頃は、鬼道丸より二つ、三つ上か。
だが、鬼道丸はもう目を離すこともできずに、惚けたように姫君の顔を見上げていた。
ぼんやりした鬼道丸の耳に、涼やかな声音が聞こえてくる。
「あなたは陰陽師なのですか」
鬼道丸ははっとして、思わずふらふらと立ち上がった。
姫君はなぜか思いつめたような目をして、鬼道丸をじっと見ている。鬼道丸はぶるぶると首を縦に振って姫君に答えた。
すると、姫君は持っていた数珠を握り締め、震える手でそれを胸元に押し当てながら呟いた。
「ああ、観音様のおっしゃった通り。これできっと、あの方の命も救われる」
最初のコメントを投稿しよう!