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先生の背中が人混みに紛れて行く。
隣りに佐伯さんを連れ、私の知らない、踏み入れられない大人の世界に消えて行く。
「……イヤだ。行っちゃイヤだっ!」
「琴音っ!?」
私は恭子の腕を振り払い、彼が消えた人混みへと駆け出した。
彼の背中が涙で霞んで見える。
「待って!先生っ!」
私の声に気づいた彼は、目を皿のようにして振り返った。その隣りには佐伯さん。そして、二人が来るのを待っていたのか、数名の病院スタッフの姿もある。
「先生……私、また飲みすぎちゃったみたいで……お腹が痛いんです。苦しくて…このままだと、また吐血しちゃうかも知れません!」
目に涙を溜めながら言い放つ。
街中で堂々と吐血予告をする私。
馬鹿な事をしているのは自分でも痛いほど分かってる。頭では最低だって分かっているけど、感情のコントロールが利かない。
当然、佐伯さんを含め周囲は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
私の頬に一粒の涙が伝う。
「…胃十二指腸潰瘍の再燃でしょうか。ここで吐血はマズイですね。直ぐに救急外来を受診しないと」
彼は私の瞳を見つめ、主治医用の丁寧な口調で私に言った。
「先生……」
「このまま稲森さんを救外に連れて行く。悪いけど俺は二次会パスするわ。後は宜しく、幹事さん」
彼は掴まれた佐伯さんの手を引き剥がすと、口端をくっと上げて綺麗に笑った。
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