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ギイはけして夏月を責めているわけでも、偉そうに説教しようとしているわけでもない。ただ静かに、夏月が本当の気持ちを言うのを待っているだけだった。
――帰りたいところなんか、どこにもない。
夏月は唇を噛んだ。
自分のしていることが何なのか、夏月にだって判っている。悪いこととか犯罪とか言う前に、とてもきたないこと。
汚いことをしていると、自分でもちゃんと判っているのだ。
でも男に身体を売らなければ、『りぼん』のマンションにはいられない。けして望んで得た居場所ではないけれど、同じ年頃の少女達がうつろな瞳をしてたむろするあの部屋を追い出されたら、夏月にはもう行く場所がない。
家には――二度と、帰れない。
その理由を思い出すだけで、吐き気がする。
夏月は何も言えず、ただうつむいた。膝の上で強く両手を握り締めていないと、全身が震え出してしまいそうだった。
いつもそうだ。誰かがこうして優しい言葉をかけてくれるたびに、心の天秤がバランスを失って大きく揺れ始める。みんな諦めて楽になってしまいたいとすすり泣く自分と、それでもまだ生きていたい、何かを信じていたいと泣き叫ぶ自分と。
ギイはそんな夏月の様子を見つめ、やがて小さく吐息をついた。
「……送っていくよ」
立ち上がり、リビングに置いてあったミニクーパーのキーを手に取る。
夏月も黙って、彼の後に従った。
二人を乗せた可愛い黄色のミニクーパーは、ようやく活動し始めた銀座の街を抜け、とことこと渋谷へ向かう。
その車内でも、夏月は押し黙ってうつむいたまま、ほとんど身動きもしなかった。ギイも何も言わず、夏月の方を見ようともしない。重苦しい沈黙が、夏月の胸を締め上げた。
やがてミニクーパーは、渋谷センター街近くの雑居ビルの前に停車した。ダンスクラブ『HUSH』が入っているビルだ。
自動車を停め、エンジンを切っても、ギイは降りろとも何とも言わなかった。両手をステアリングにかけたまま、ただじっと前を見つめている。
夏月も身動きできなかった。
ここで……彼に言ってしまえたら。
帰りたくない。どこにも行きたくない。
やかましいだけの街角にも、知らない男に連れていかれるホテルの部屋にも。
――あたしには、もう帰れる場所なんか、ない。
親がいる家にも、帰れない理由がある。それを、打ち明けてしまえるなら……!!
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