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そんな日和の限界に気づいたのは北村だった。
ナイト勤務が一息ついて二人だけになった時、二時間ほど席を外しなさいと耳打ちされた。
「一也に会ってきなさい。今執務室で仮眠しているはずだから」
と言う。
勤務中に鳴沢に会うのは避けていた。
二人っきりになってしまえば歯止めがきかないと、互いにわかっている。
見れば触れたい、触れればキスしたい、キスしてしまえばもう何も見えなくなる。
ホテルとは言え、ここは二人にとっても大切な職場だ。
以前のように鳴沢はバカンスに来た客ではない。
あの時も、日和は自分なりのけじめをつけるつもりで、仕事が終わってから鳴沢を訪ねたのだ。
今は深夜で、特に忙しくないとは言え勤務中だ。
北村の好意に縋りつきそうになりながら、どこかで一線を引いていたいホテルマンとしての矜持もある。
日和は微笑んで、寂しく首を振った。
「ありがとうございます、マネージャー。でも、一也さんが寝ているならそっとしてあげたいです。とても疲れているようだから」
「山吹君が訪ねて行けば元気になると思うよ?」
「仕事を抜けだしてまで押しかけたら、これからこのホテルを背負う一也さんの覚悟に傷をつけてしまいます。おれは大丈夫です。毎晩電話で話しているし、いつか必ず二人で休みを
取ろうって約束してます。だから……」
執務室で寝ている鳴沢がいる。
走って行けば三分で会える場所にいる。
会えるものなら会いたいと、叫び出そうとする口を抑えた。
泣いてしまいそうに震えてしまった肩を、北村はゆっくりと撫でて「可愛そうに」とため息をついた。
「口止めをされていたんだけど……」
抱き寄せられる北村の胸はいつも暖かい。
優しい日だまりのようだった祖母を、ふと思い出した。
「一也をイギリスのホテルへ、一ヶ月間の研修へ行かせる。これは支配人就任時から決まっていたんだ」
「……え?」
「おそらく今夜を逃せば、一也は研修の準備でさらに忙しくなるだろう。その後はバタバタと出立だ。会ってきなさい。一也のためにも」
ぼんっと肩を押され、立ちくらみを起こしたように足がもつれた。
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