1.人と人が出会うのは、春だけとは限らないのです

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ウチは今年トマト作ってねぇのよ。じゃあ、採れたら差し上げますよ。そんな定番の世間話に小さな花を咲かせてから、ほとんど垂直に折れ曲がった絹子婆さんの背中を見送った。 よたよたと推進力の八割を乳母車に頼るような足取りで、いったいどこへ行くのかは知らないけど、きっとまた別の畑に束の間の休息と、ひとかけの煎餅を届けて回るのだろう。 どこからか、燕の鳴き声が鋭く耳を掠めて行った。誰かが帰った後っていうのはどうしてか、聴覚が節操なく辺りの音を拾いたがる。ともすれば、その辺をひらひら飛び回るモンシロチョウの羽音まで聞こえて来そうなくらい。 頭に被った麦わら帽子の編み目から、六月初旬の陽光がキラキラと目の奥を刺す。黄色く濁り始めた午後の大気の遥か上空で、白い絵の具を流したような筋雲がまだ春の名残を主張していた。畑の西側に広がる田園の向こうには、俺の通う高校の校舎が齧りかけの煎餅よりも小さく霞んで、何だか、じっとこっちを見ているみたいだった。
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