第1章

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 わたわたと振り回していた手がひょいと掴まれ、反対に引っ張られることでようやくきちんと両足で立つことが出来た。ふう、と冷や汗が今更ながら背中を滑った。 「あ、あの、大丈夫ですか?」 「ひゃいっ!」  唐突に頭上から声が掛けられ、体が跳ねると同時に慌ててそちらを見る。  そこに立っていたのは、短い黒髪に黒縁眼鏡、どこか抜けたような、優しげな雰囲気が印象的な青年だった。おそらく大学生くらいだろう。グレーの、襟にボアの入ったジャケットを着こんでいた。 「あ、あらやだ、ごめんなさい」  ぼーっとし過ぎでしょ、と内心自分をたしなめながら、口元に手を当てて謝る。 「あ、いえ、こちらこそ、ぼーっとしてたんで。すみません」  青年の方もぺこり、と頭を下げる。しっかりしてるなあ、とおばさんめいた事を思いながら、いえいえ、とこちらも釣られるように頭を下げる。  それにしてもこの辺りじゃ見かけない顔ねえ、と思い、再びじいっと見つめてしまっていた。その彼がぽかんとしたような、困ったような顔でこちらを見返す。 「あ、あの……」 「ってやだ、ごめんなさい。この辺りじゃ見かけないなあ、って思って」  急な出来事の連続で思考がとっ散らかっているせいか、いつもより行動がまとまらない。おほほ、と照れ隠しに変な笑いが出てしまう。 「俺、近所の知り合いの家に泊まっていて、元々ここの人じゃないんです」 「あらそうなの! あ、私ここの近所でパン屋をやってるの」 「え、パン屋さんなんですか?」 「女手一つでも、何とかなるものよ。そうだ、よかったらパンを買いに来てちょうだい、味には自身があるんだから」 「はい、是非」  と、そこでブルっと体が大きく震える。うう、大分冷えて来た。そろそろ戻って、あったかいカフェオレでも飲もう。 「それじゃあ、ごめんなさいね。引き留めて」 「いえ。じゃあ」  お互い軽い会釈を代わし、そして踵を返した。      ○  ガチャリ、どドアノブをひねる。体を滑り込ませるように室内に入ると、暖房で十分に温まった空気が、冷え切った皮膚に沁み込んでいくようだった。 「おう、お帰り」 「ただいま。さっむ」  この地方有数の寒い地域なだけあって、軽く外に出ただけでも芯まで冷え切った。
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