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事実、陰陽師の許には、気に食わない誰それを呪殺せよ、という密命が届くことがある。
紫翳も幾度か受け取ったが、それら全てを断ってきた。
口にはしないだけで、晟雅も同じ経験はあるだろうし、何人かの陰陽師は応じてきた筈だ。
呪殺は露見すれば死罪であるが、証拠が残らないがため、加持祈祷よりよほど需要があるのだ。
そして呪殺の依頼があるのなら、その逆に護身の依頼もあるものだ。
(今回ばかりは、私も気を付けねばならんな)
紫翳への呪詛をではない。
紫翳の許に齎らされる種々の陰謀に、決して加担しないことをだ。
護身であってさえ、容易に受ければ紫翳が多部か錦小路に肩入れしていると見なされる。
それは避けなくては。
「……面倒なことになってきたな」
かねてより、室の方様が桐鶴帝の正妻の座を狙って立ち回っていることには気が付いていた。
それを桐鶴帝に進言したのは風斎で、まだ幼い東宮様に、無理やりに泉徳帝を名乗らせる提案をしたのは忠麿である。
その密やかな策謀を知っているのは当事者だけで、室の方様の動きに真っ先に気が付いたのは、紫翳だった。
先手を打たれたことで、室の方様が焦っておいでなのは分かっているが、右丞相を味方につけられてしまうと、こちらとしても動きにくい。
いかに忠麿や風斎の官位があったところで、右丞相には及ばぬし、相手はあの多部一門だ。
室の方様の目論見と、多部家の策謀の利害が一致することで、こうまで話が面倒になるとは。
(……禁中が揺れる)
漠然とした不安が、紫翳の胸に押し寄せる。
ほんの僅かでも何かが違ってしまえば、そこから一息に崩れるような気がしてならない。
濡れ髪を手で絞って顔を上げると、色づく庭木が格子の向こうに見えていた。
時おり吹いてくる風に葉が頼りなく揺れ、やがてぷつりと枝を離れる。
「禁中が、揺れる……」
呟く声は、誰も知らない。
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