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「次が、最後の曲です」  佐伯さんが前置きをして、音を奏で始めた。  モーツァルト作曲の、『きらきら星変奏曲』。  佐伯さんはいつもこの曲で演奏を締める。 「……相変わらず、べた惚れされてんな、朔」  永末さんが行儀悪く肘をつきながら、ストローでアイスコーヒーを啜って言った。  僕は一度だけ、佐伯さんに言ったことがある。きらきら星の曲が好きだと。救われた気持ちになるのだと。それから佐伯さんは、ジャズの曲でもないこの曲を、いつも弾いてくれるようになった。  いつだって、僕に聴こえるように。  永末さんのからかいを受け流しながら、注文を受けたり、合間に皿を洗ったりした。耳には軽快なピアノの音が流れてくる。  クライマックスに近付くにつれ、きらきら星変奏曲は盛り上がりを見せる。最後の和音を弾ききり鍵盤から手を離した瞬間だろう、店内で拍手が湧き起った。流しの水を止め、またキッチンから顔を出す。  笑顔でお客さんに頭を下げて、袖で額の汗を拭いながらカウンターに近付いてくる姿があった。途中で永末さんに服を引っ張られ、ちょっかいを出されたのか叩かれたり不服そうな顔をしたり、最後にはふざけあうように笑って、キッチンにまでやってきた。 「お疲れ様、朔くん、聴いてくれた?」  ふわ、と佐伯さんは最初の頃と変わらぬ笑顔を浮かべる。  お客さんのためと言いながら、毎日、毎回、僕に聴かせるための曲があることを、僕は知らないふりをしている。 「忙しくて」 「えぇー……まぁ、いいや。次は、聴いてね」  そう言って頭を撫でる大きな手は、少し汗ばんでいるようだった。  一生懸命に音を聴かせてくれる佐伯さんに、僕は自分の言葉を聴かせるのだ。 「多分ね」  佐伯さんは露骨に落ち込んだような顔をするから、それがまた面白い。思わずふふ、と吹き出すと、佐伯さんは逆に、嬉しそうに笑うのだ。  悔しいから、僕は意地悪をする。 「わっ」  くい、と腕を引くと、驚いたのか佐伯さんの身体が傾いだ。耳に口を寄せて、そっと、囁く。 「好きですよ、佐伯さんのピアノ」  佐伯さんは一瞬ぽかんとしてから顔を赤らめ、意地悪だなぁと呟いた。けれどやっぱり次の瞬間には、ふわりと笑うのだ。  これからもずっと、僕の言葉を聴いていて。  大きな手を、祈るように握りしめた。
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