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2
僕を生み出した父さんは、僕に何をしたって絶対なのだ。だから暴力を振ろうが身体を弄ろうが、すべて僕の意思は関係がない。
逃げても捕まる。そういう仕組みになっている。だったから諦めて、すべてに身を投げた方がマシだった。
「俺だけだった?」
佐伯さんはそう言った。泣きそうな顔で僕の頬を大きな手で包み、声を潜めた。
助けを求めたのも、何かあったときのために店を選んだのも、すべて僕の甘さだった。父さんから逃げられる、そう思った。
父さんは優しかったのだ。ただ、与える愛情が歪んでいただけだったのだ。それを、僕は受け止めなければいけない。
その義務が僕にはある。
それでも、涙が流れるのはどうしてだろう。
「朔くん」
佐伯さんは、泣き出した僕を抱き締めた。いつものような優しさはなかった。痛いくらいの抱擁に、息が詰まりそうになった。
離してくれ、ここには別れを言いにきた、僕は行かなければならない。
言葉にはならないので、ひたすらに佐伯さんの背中を叩いた。強くしても、その分抱き締める強さが強くなった。
「嫌だ」
何も言っていないのに、佐伯さんはそう呟いた。
お願いだから、離してくれ。
心と体が、引き裂かれそうだった。
「聞こえるよ」
この声は、ピアノの音色だった。夜に溶けた、鍵盤を跳ねる音の粒だった。震えた心を思い出す。
「朔くんの声、ちゃんと、俺には聞こえるよ」
そんなはずはなかった。だって僕には声がない。伝える手段だって、抱き締められた今、もうどこにも残っていないのだ。
テーブルの端に残ったメモ帳が視界の端に入る。それすら仮の伝達機関でしかない。
僕の声は、どこにも届かない。
僕はいつでも、奥底に眠っている。
「聞こえるよ」
当たり前だろう。そんな風に佐伯さんは言った。そんなはずはないのに、錯覚しそうになる。僕の声は、佐伯さんに届いているのだろうか。
届けても、良いのだろうか。
聞こえる、だろうか。
助けて、と願ってしまったあの夜。
俺を呼んで、と微笑んだ佐伯さんの顔が浮かぶ。
夢幻なんかじゃないのなら、僕は言葉に、出来るだろうか。
「聞こえる。だから、聞かせて」
誰にも左右されない僕の声を、聞いてくれる人は、ここにいた。
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