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その日以来、僕はこの村の一員となっている。
(あれ……?)
駅前に澄子の姿は無かった。
(おかしいな……)
澄子はいつも先に来ていて、僕を待っている。それが、今日は居ない。
初めての事だった。
僕は駅舎の陰に入った。
(しかし、珍しい事もあるもんだ……)
澄子はいつだって、僕を出迎えてくれる。
陽光の下、あるいは雨の下、曇り空の下、僕に向かって手を挙げるのだ。優しげな笑みを浮かべて。
いつだったか言っていた。
――本当は駅で待っているのだは無くて、毎日、起こしに行ってあげたい。
――でも、美木ちゃんが居るから。
そう言って微笑んだ澄子の瞳は、しかし、笑っていなかった。
何分か経って、待ち人がやって来た。僕の前に立つと、弾んだ息で、
「ごめんなさい……遅れちゃって」
「いや……」
この日差しの下を急いだせいで、さすがの澄子も額に汗を滲ませている。澄子は小さな手提げからハンカチを取り出すと、それで額を拭った。
「澄子……真夏なんだから、長袖なんか着ない方がいいんじゃないのか?」
「え?」
「まあ、今は走ってきたから暑いんだろうけどさ」
「…………」
澄子は、何故か寂しげな顔をした。
「だって……忘れちゃったの?」
「何が?」
「聡人が、前に私は日焼けしない方がいいって」
「…………」
「そう言ったから、私……」
「……そ、そうか、そうだったよな」
僕は慌てて笑みを浮かべる。
言われてみれば、確かに、そんな事を言った覚えがある。
澄子の肌は好き通るような白で、それが日焼けするのはもったいないな、そんな風に思ったのだ。けれど、それを言ったのはだいぶ昔だ。澄子は、言った本人すら忘れている言葉に、忠実に従っているのか……。
「ごめん……。うん、確かに、澄子は日焼けしない方が綺麗だよ。ほんとうにそう思う」
「でも……美木ちゃんは、日焼けしてるよね……」
「…………」
「…………」
何故そこで美木が出てくるのだろう?
僕たちの立っている場所の重力が、急に増したように思えた。
「じゃ、行こうか……」
いつまでも突っ立ていても仕方がない。
歩き出すと、僕の腕に澄子の細い腕が絡んできた。澄子は、腕を組むのが好きだった。街を歩く時は、必ず腕を組む。僕も、別に嫌じゃ無い。
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