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しかし、言われてみれば、そうだったかもしれない。ずっとベッドの上で、惰眠を貪っていたような、そんな気がする。
「お兄ちゃんったら、あたしに心配かけて。ほんとに悪い子」
手を伸ばし、僕の両の頬を指で引っ張った。美木はたまに、こんな物言いをする。母親気取りらしいのだ。まあ、この家における美木の役割を考えると、あながち間違いとは言えないが……。
軽く頭を振って指で振りほどき、僕は言った。
「……心配していた人間が、どうしてプロレス技を仕掛けるんだ?」
「え? あーははは……」
乾いた笑いをたてながら、美木はじりじりと後ずさっていった。
「早く起きてよね! お兄ちゃん!」
――ばたん!
扉が閉められ、静寂が訪れた。
食堂に入ると、コーヒーのいい香りが鼻腔に迫ってきた。この香りは、僕にとっては、鶏の鳴き声に等しいものだった。
「あ、お兄ちゃん、おはぐ~」
「……お、おはよう。何だ? おはぐうって」
「え? おほようとモーングを合わせたんだよ」
「…………」
僕は、コーヒーメーカーのポットに手を伸ばし、中身をカップに注いだ。そして、椅子に座る。カップの中身で口の中を湿らせると、急激に空腹を覚えた。どうやら昨日は、本当に食事を抜かしたらしい。忙しく手を動かし、胃袋の欲求に応える事とした。
「ふわ~、すっごい食欲だね。めっずらしい!」
正面に座っている美木が、目を丸くした。
「いや、お腹が空いてて……美木、クロワッサン、もうふたつくらい無いか?」
「ええ? まだ食べるの? お兄ちゃん、太っちゃうよ? 太ったお兄ちゃんなんて、あたし、嫌だもん」
「人の心配より、自分の心配をしたらどうだ?」
「え?」
「美木、少し太ったんじゃないか?」
「……え?」
美木は顔を強張らせた。
「さっきのプロレス技……ダイビングプレスだったか? 確か、前にもやられたけど……その時よりも重たい気がした」
「…………」
「…………?」
嘘を言ったわけでは無かったものの、言わない方が良かったかと思った。いやに深刻そうな顔をしてしまったのだ。
「いや……気がしただけだ。水泳をやってるんだから、そうそう太るはずも無い」
「え? えへへ……そうだよね!」
美木は陽気に微笑むと、何度も頷いたのだった。
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