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第9章
松本さんの足の怪我は順調に回復していった。
1週間も過ぎた頃には、松葉杖が取れ、更に1週間もする頃には、普段と同じように歩ける様になっていた。
「怪我、よくなったね」
僕が声をかけた、松本さんは
「うん。おはよう」
と言って、頷いた。
そこには、いつもの朝があった。
僕が登校した頃、教室の中に松本さんの姿があり、窓際の自分の席から窓の外を眺めていた。
季節は、夏になっていた。
山々の緑と、空の青さ、雲の白さが夏の日を演出し、蝉の鳴き声がうるさい様に聞こえていた。
僕達の制服も夏服に変わっていたが、僕と松本さんの関係は変わらないでいた。
あの職員室での出来事、その日の放課後の間接キス事件があってからも、2人の距離に特に変化はなかった。
『仲の良い、同級生』
僕は、そう思っていた。
僕から告白する事は無く、彼女から告白された事も無かった。
ただ、仲の良い友達として、冗談を言い合いながら過ごしていた。
職員室の出来事から、他のクラスの同級生だけでなく、先生達の中にも、僕達がつき合っていると思っている先生がいて
「夏の開放感から2人で羽目を外して、停学になるような変な事をするんじゃないぞ」
なんて言って来る、年配の先生もいた。
でも、そんな事を言われると、僕が
「停学になるような変な事って、具体的には、どんな事をする事ですか?」
なんて、聞き返していた。
僕は自分の机に荷物を置いて、松本さんに向かって
「朝から暑いよね」
と言うと、窓際に座っている彼女は
「ここは、風が通るから涼しいよ」
と言って来た。
僕は
「本当かな?」
と言いながら、窓際に立つ
朝の爽やかな風が、吹き抜けて行った。
「風が有るから、涼しいね」
僕が言う
「でしょう」
松本さんが言った。
2人で一緒に外を見ていると、松本さんが
「そう言えば浦河、今年の県大会の出場種目は決まったの?」
と聞いて来た。
「決めたよ」
僕は言う
「どの種目に出るの?」
松本さんは直ぐに聞いて来た。僕は
「今回はね、先生に頼んで短距離に絞って、エントリーするつもりなんだ」
と答えた。
松本さんは
「浦河、走るの速いからね」
と言い、そして
「私がハードルで転んで怪我をした時も、一番初めに駆けつけて来てくれたもんね」
と付けたし、僕の方を見た。
「そうかな。・・・今から大会に向けて、走り込まないとね」
僕は、右手で頭をかきながら答えた時、教室の扉が開き、同級生の倉田や五十嵐さんが登校して来た。
「おはよう」
「今日も、朝からデートか」
なんて、声をかけて来る。
いつも言われているので、特に気にする事もなく
「おはよー」
「おーす」
2人で返事をした。
「お前達、いつも学校に来るのが早いよな」
倉田が言う
「そうかな。普通だよ」
僕は答えた。
そのうちに、続々と同級生が登校して来て、教室の中は一段と騒がしくなってきた。
朝のホームルームの時間になった。
この日のホームルームは、来月行く修学旅行の行き先についてのアンケートの結果の発表が有る予定になっていた。
修学旅行の行き先の候補地は
東京見学とディズニーリゾート
韓国
京都・奈良
北海道
沖縄
の5つだった。
僕は、東京見学とディズニーリゾートに1票入れた。
と言うより僕の班の6人は全員同じだった。
他の同級生に聞いても、同じか北海道と言うのが多かった。
「ディズニーリゾートで決まりだね」
辻本さんが、眼を輝かせて言う、松本さんも
「そうだよね。決まりだよね」
と言った。
「早くミッキーに会いたい」
と、行き先が既に決定しているかの様に話をしていた。
教室全体がザワザワしていた、久保先生がもったいぶったように
「修学旅行の行き先は、・・・・【韓国】・・に決まったから。それで、明後日の昼休みの間に、パスポート用の写真を撮るので髪の毛等、ちゃんとして学校に来いよ」
と、行き先を発表した。
「えー」
「なんでー」
「嘘でしょー」
色々な声がクラスの中から、聞こえて来た。原田が
「先生、何で韓国なんですか?」
と聞いている。
先生は
「みんな静かにしろ。アンケートの結果で韓国が一番多かったから、行き先が韓国に決まったんだぞ」
と言う。
「嘘だー。そんな事、無いよ」
「ディズニーが一番でしょう」
「みんな、ディズニーに入れたって言っていたよー」
「学年主任の浦本先生が、行きたい場所なだけでしょう」
「最近、新しいビデオカメラを買ったって自慢してたから、見せびらかしたいだけでしょう」
「韓国で、本場の焼き肉とキムチで、ビールを飲む気なんだ」
なんて言っている、同級生も居たけど、久保先生が
「静かにしろ。行き先が決まったのだから文句を言わない。それに、海外旅行なのだから、他の国の文化に触れる良い機会だぞ」
「そうですか?」
「ディズニーリゾートに、行きたかったのに」
なんて声が、また聞こえて来た。
「旅行中にソウルに有る、ロッテワールドと言うテーマパークに行くから、それで良いだろう」
と、みんなをなだめた。
話に出ていた、学年主任の浦本先生の事を、僕達は
[陰の校長]
と呼んでいた。
開校当時からいる、古株の先生で色々と影響力の強い先生だった。
僕は
「また、浦本のわがままだよ」
と、小さな声で言った、松本さんも
「そうだよね」
と相槌を打ってきた。
その時
「それから、浦河」
久保先生が、僕の名前を呼んだ
「は、ハイ」
僕は慌てて返事をした、先生が
「今回の修学旅行で、韓国の高校生との交流会を予定しているけど、その時に、浦河が本校を代表して挨拶をしてもらうからな」
と言って来た。
「えっ!本当ですか?」
僕は驚いて、聞き返す。
「そうだ。職員会議で、浦河が適任だという話が出て、決まった事だから」
と、すまなそうに先生は言う。
「浦本先生からの指名ですか?」
僕が聞くと
「そうだ、やってくれるか?」
「・・・・分かりました。やりますよ」
僕はちょっと考えて返事をした。久保先生は、僕の返事を聞くと
「そうか、やってくれるか。それと代表挨拶だけど、韓国語でやってもらうから」
と付けたした。
「えー!。それは絶対に無理ですよ。それは出来ませんよ」
僕は絶句した。
「大変だろうけど、代表に選ばれたのだから、しっかりやってくれ。相手の高校生も日本語で挨拶する事になっているから、浦河もちゃんと韓国語を覚えてくれよ。それと、他のみんなも決まった事だから、あれこれと文句を言わない様に」
久保先生は、そう言うと名簿を持ち
「ホームルームは、これで終わり」
と言って、教室を出て行った。
教室の中が、またうるさくなる。
松本さんが
「浦河、かわいそう」
そう言って、僕の顔を横から覗き込んできた、原田が
「韓国語なんて、話せるのか?」
と言って来た、僕は
「そんな事、出来るか!」
と言うと、近藤が
「早く駅前留学しないと」
からかってくる。
辻本さんが
「駅前留学は英語でしょう」
なんて、突っ込みを入れた。
「まっ、仕方ないか」
僕は開き直ったように言う。
「大丈夫なの?」
松本さんが、心配そうに聞いて来る
「浦本に何とかしてもらうよ。勝手に決めるだけ決めて、何もしないなんて、させないからさ」
僕は言う
「浦河は、いつも前向きだね」
松本さんが言った。
「それは、誉めているのかな?」
僕が聞くと
「多分ね」
と、松本さんが笑いながら言った。
みんなこの決定について、初めは文句を言っていたけど、ディズニーリゾートはこの後に行ける可能性は高いけど、高校生の修学旅行として海外に行くなんて、簡単には出来る事じゃないから、楽しんでみようという、雰囲気が広がっていった。
その後、修学旅行に出発するまでに、韓国語の通訳の人を講師に招き、韓国語の講習等の特別授業が行われた。
僕は、通訳の人に自分で考えた挨拶文を韓国語に訳してもらい、その訳した文章をMDに吹き込んでもらった。
通学のバスの中や、放課後に長距離を走っている時、韓国語に訳された挨拶をいつも聞いていた。
何度も聞いているうちに、挨拶だけは、何とか出来る様になった。交流会の時は、相手の高校生が先に挨拶して、その後に僕が挨拶をする事に決まったみたいだった。
修学旅行まで、1週間を切った日だった。
放課後、教室に1人残り
「デタヒ、カムサハムニダ。・・・・」
と、挨拶の練習をしていると、松本さんが近づいて来て
「スゴいね。挨拶、覚えたんだ」
そう声をかけてくる、僕は
「何時も聞いていたら、嫌でも覚えちゃうって」
机の上に置いてある、MDを指さしながら答え
「お嬢は、まだ帰らないの?」
と聞いた。
松本さんは
「うん、もうちょっとしてから、帰ろうかなって思って。それより、さっきはなんて言っていたの?」
と質問してきた。
「相手の高校生が先に挨拶と出し物をするらしいから、その後の挨拶なんだけど「どうもありがとうございました。・・・・」」
と日本語で訳した挨拶を教えた。
松本さんは
「スゴい。そんな事を言っていたんだ」
「そうかな?」
僕は言う。
「本当に、スゴいよ」
松本さんは、僕を見ながら言う。
「惚れ直した?」
僕は、ごく自然に聞いていた
「えっ!」
松本さんが、ビックリした様に聞き返す。
「あっ!、ゴメンね。へ、変なこと聞いちゃって」
と、慌てて誤った。
「ううん。ちょっと、ビックリしただけ」
松本さんの頬は、少し赤くなっていた。
僕は、挨拶文が書いてある紙を、松本さんに渡して
「間違えていないか、見ててね」
と言って、代表挨拶の練習を再開した。
いつの間にか、2人だけの勉強会になっていた。
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