第1章

8/42
51人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
 ドーパミンは、人が幸福を感じたときに放出される物質だ。つまり、人が幸福になると咲くのだ。冬人夏草の種子を宿していない人間はもういないだろう。地下シェルターにこもったとして、食べ物は外から調達してくるしかない。その食べ物には冬人夏草の種子が含まれている。温度変化、圧力変化に強い冬人夏草の種子から逃れる方法はない。  こうして僕ら人類は、幸福になることを禁止されたのである。  七十億人いた人類は、二十億人にまで減った。ほとんどの人が咲いた。それ以外にも冬人夏草に起因する戦争でも多くの人が亡くなった。咲くのを防ぐために、「促鬱剤」を飲むことが勧められ、結果、鬱になって自殺した人も相当数いたはずだ。正確な数は覚えていないが、国内でも二百万人はいたと思う。  人類が生き残る道は、幸福にならず、不幸のどん底にも落ちず、曇天のような気持ちを安定させ続けることだけだった。  冬人夏草の発祥地であるロシア、そして繁栄を極めていたアメリカ、中国はすぐに崩壊した。皮肉な話だが、日本人は多く生き残った。だからこそこうして一応国の形は保たれ、生活が続けられている。  しかし、もちろん統治が及ばない場所もある。そこは無法地帯になり、ときに無法者たちは統治が及んでいる場所にも手を出す。  その一例が、目の前の光景だ。 「やめて、ください……!」  スーパーの裏で、二人の男に、少女が荷物を奪われようとしていた。ぱんぱんに膨らんだリュックにはさぞ貴重な品々が入っているのだろう。男たちは、浮浪者のようだった。おそらく、スーパーの廃棄を漁りに来たのだろう。治安が悪いのは、僕の実家の方だったはずだが、こっちにもいよいよ流れてきたか。  緊急事態なのに、僕は行動できずに、どうでもいいことばかりが頭の中を流れていく。人が襲われているのを間近で見るのは初めてのことではないはずなのに、何度見ても慣れない。呼吸が浅くなり、液体窒素で凝固されたように一ミリも動けなくなってしまう。  息を大きく吸い込む。胸をおさえて、心臓の動きを感じる。息を吐き出しながら、心臓を握るようにしていく。こうすると心拍数が下がる。僕がテスト前にいつもやっている方法だった。  大きく息を吸い込む。 「――だああああぁぁぁっ!」
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!