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根拠は単純で、二〇〇〇年代に活躍した若手クリエイターはおおむね団塊ジュニア(七〇年前半うまれ)とその前後の世代であり、これらのひとたちは八〇年代に思春期を送り、その時代のカルチャーを摂取しているからである。
一〇代に得たものを咀嚼した彼らが二〇代から三〇代にかけて生みだした創作物のなかには、かつての摂取物の影響をたやすくみてとることができる。
それは八〇年代に一〇代をすごした人間たちへの主たる送り手であった団塊世代(狭義には四七年から四九年うまれ)とその前後の世代が、六〇年代から七〇年代初頭にかけての文化や政治状況から大きなインパクトを受け、八〇年代にうみだした作品にその匂いを落としていたのと同様の事態である。
たとえば笠井潔や四方田犬彦、大塚英志が指摘するように、八〇年代日本の伝奇バイオレンス作品や中上健次作品、冒険小説には、正史を疑いくつがえそうという偽史や稗史を用い、第三世界の人民や「まつろわぬもの」から権力を転覆させんとする反権力的な意志が働いていた。
これはあきらかに全共闘運動やらロックやらのカウンターカルチャーを栄養に育った世代ゆえにそうなったと考えるべきだ。
しかしそんな創作物の影響を受けたはずの二〇〇〇年代日本のエンターテインメント・フィクションの多くは、政治性がほとんど脱色され、偽史のダイナミズムを失い、吸血鬼をはじめとするガジェットや、エロスとバイオレンスという表面的な部分が主に継承されることになった。
八〇年代と二〇〇〇年代ではそもそもPEST(政治・経済・社会・テクノロジー)をはじめとするマクロ環境やフィクションの流通がどう変わったのかといった話が本来であればもっと必要なのだが今回は割愛し、作品と作品の、作家と作家の影響関係に絞って迫っていきたい。
たとえば二〇〇〇年代前半に隆盛した「セカイ系」というものは、ようするに押井守や神林長平や竹本健治や村上春樹の「資質」を受けついだ作品群だった。
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