第1章

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◆6、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』、ジャック・フィニイ『盗まれた街』 『ウルトラセブン』でも丸パクされたジャック・フィニイ『盗まれた街』では、街とその住人がすこしずつ異星人にとって替わられるさまをえがいた古典的傑作。  偽物だらけのディストピア――つまり本物と偽物の差異が前提となったディストピア作品である。  ディックの後期作品はドラッグの後遺症と精神疾患から来る陰謀論によってトンデモな領域に突入している。  その意味で、ディックじたいがディストピアに生きたと言っていい。 『ヴァリス』はそうした妄想と現実の世界の区別がつかなくなっている(かれはCIAにねらわれていると信じつづけていた。どうでもいい/まったく関係ないがジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは元CIAである)晩年の怪作。  ふつうの意味での傑作にはほどとおいが、よくわからない迫力はある。  そもそもディックは『ブレードランナー』の原作(『電気羊は~』)から後期の『暗闇のスキャナー』(『スキャナー・ダークリイ』)まで、人間/シミュラクラ(模造人間=アンドロイド)という区別を前提に、自分が本物なのか偽物なのか、ということにさいなまれつづけてきた。  そしてディックは、じしんが妄想にとりこまれていたことからわかるように、真偽を規定するはずの側にいる存在じたいの真偽の区別があやしい(『ブレードランナー』を想起)、ということがクリティカルな不安となっている。  フィニイより一段階重傷なのである(ディストピア度が高い)。  ただし、人格をデータとして徹底的にあつかう(本物なのかコピーなのか、という問いはデジタルデータにおいては意味がない)グレッグ・イーガンの登場によって、こうした問題設定はいかにも旧時代的なものとなった。  逆にいえば、かつては真/偽、本物とコピーとのあいだには決定的な差があった=偽物であることが不愉快な事態となりえた(まあ、食品偽装問題とかをかんがえれば、いまでもアクチュアルな問題なんですけどね)。
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