第1章

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 いまだにSFではたびたび掘りかえされ、問いなおされる(たとえば瀬名秀明『デカルトの密室』)チューリングテスト~「中国語の部屋」=機械が思考できるか=機械と人間とは区別できるか問題もまた、真偽問題パターンといえる(チューリングテストはディストピアとは関係ないが)。  いまや音楽においてはこのような真偽問題はほとんど浮上しない。  サンプリングで構成された音楽がオリジナルかどうか…というのはアカデミックな美学的にはともかく(増田聡の本などを参照)、機能的にはまったくどうでもいい(たわむれに椹木野衣『シミュレーショニズム』でも読むがよろしい)。  すべてサンプリングでつくられたアンビエントがあったとして、それを模造世界だなどと言っても「だからなに?」というハナシである。  そもそも、音楽作品にどんなメッセージ性がこめられていたとしても、音楽は音楽である以上、「音楽としてのみ」受容することができる=イデオロギーを無視できる。  ゆえにディストピア・アンビエントとは、作品に込められたメッセージ性からではなく、究極的にはその音像が聴取者にとって「ディストピア・アンビエント」だな、と感じられる度合いにおいて判定されるべきジャンルの分類である、と個人的にはかんがえる。
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