第1章

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◆3、H・P・ラヴクラフト〈クトゥルー神話〉  念のため2点断っておくなら、まず第一にラヴクラフトの作品を「神話体系」として整理したのは弟子のダーレスである(よって「ラヴクラフト〈クトゥルー神話〉」という表記は正確さを欠いている。のだがこのほうが簡単なのでとりあえず)。  第二に、通常はディストピアSFとしてクトゥルー神話はかぞえられない。  ではなぜここでラヴクラフト作品をディストピアSFとしてあつかうのか?  ラヴクラフトは、人間などその気になればかんたんに消しさることのできる凶大なちからをもつ邪神たちを宇宙に、あるいは地球のふかき海の底に配置することによって人類中心主義を脱したからである。  古きものどもも深きものどもも人類にとっては畏怖の対象、つまりこの宇宙は現生の地球人類にとってはいつほろぼされてもおかしくないディストピアなのだ。  しかし、ひとたび視点を邪神側に置いてみるなら?(そしてその相対化を可能にするのはむしろ邪神同士でプロレスをさせたダーレスたち後塵ではなかろうか?)  むろん邪神たちにとっても封印されているという点ではディストピアだが、復活したさいには宇宙に恐怖をもたらし、みずからの眷属たちに栄光をあたえることがほとんど約束されている。  ディストピアSFとは人類にとってのディストピアでしかないことを、「コズミック・ホラー」の創始者ラヴクラフトの作品たちは先駆的に示していた。人類にははかりしれない知と力をもつ邪神たちを描くことによって。  なお、強大な力をもつ存在の気まぐれによって世界がほろぶやもしれない、という点ではクトゥルーの邪神と『涼宮ハルヒの憂鬱』における涼宮ハルヒはまったく等価である。  そう、『ハルヒ』はディストピアSFなのだ(「エンドレスエイト」……)。 ※人類が生存するに困難な惑星を描き、えたいのしれない地球外生命体を描くだけならばスペースオペラもそうではないか、という質問にはむろんそうだと答えるほかない。  が、結局のところラヴクラフトが「ウィアード・テールズ」に書いていたのと同時代に書かれたたいがいのパルプSF=スペオペにとって未知の惑星とは未来の植民地や開拓地(「宇宙――それは、人類に残された最後のフロンティア」@スタートレック)にほかならず、異星人たちは人類の優位を揺るがすものではなかった。
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