第1章

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以上、クラークもハインラインも新人類(ニュータイプ)からすればユートピアだが、旧来的な(オールドタイプな)人類からすればディストピア、という作品を書いている。  40年代~50年代に名を上げた/馳せた作家たちは、おおむねこうした進歩的/旧来的という二項対立を崩さずに、ユートピアを示しめす=取りのこされた側から見ればディストピア、なのである。  なお、クラーク的な超越者像を反転させたのが山田正紀『神狩り』(74年)である。  人類を超越する、人間の知性では理解不能な、そしてその力で人類をあざむいてきた存在――「神」(『神狩り』では、キリストを謀殺したのは神である)。  日本SFでは小松左京や光瀬龍をはじめ戦後のSF第一世代から「神」のモチーフは重要なものとして登場していたが、第二世代の山田正紀にとって神は「敵」だった。  押井守や笠井潔の同世代=同時代人・山田正紀は、60年代後半の"あの時代"を通過した人間がかんじざるをえなかった、この世界に対する言いようのない不快感、ぬぐうことのできない不信感の象徴を「神」としてえがいた。  神を殺すことをえがこうとした。  第二作『弥勒戦争』、『地球精神分析』から近作にいたるまで山田作品にはこうした不愉快なシステム総体=神が登場する。  クトゥルーの邪神は本質的には人間に関心がない(邪神と人間とはあまりに不均衡で敵対関係たりえない)のに対して、山田正紀における「神」は人類の敵である点が異なっている。  愚かな人間どもは気づいていないだけで、われわれはだまされつづけているのだ、という世界(ディストピア)をえがいている点ではハクスリータイプの「幸福な管理社会」像を引きついでいる(もっとも『すばらしい新世界』では『1984』的な、陰謀論的な権力者は設定されていなかったが)。
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