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清涼院は『カーニバル 五輪の書』講談社文庫版あとがきで「この作品を発表した当初、毎日400万人の被害者という設定は『バカバカしいもの』で、『現実感がない』と何度も言われましたが、ぼくは、そうは思いません。真に恐ろしい事件とは、起きるまでは『バカバカし』く、たいてい『現実感がない』ように思えるものです」と書いていた。
清涼院は、正しかった。
東日本大震災を経たいまこそ、阪神大震災の瓦礫から作品をつむいだ清涼院の先駆性に目を向けねばならない。
「世界は変わってしまったのだ」とひとびとが感じざるをえないハザードを描き続けてきた、この作家の感性に。
■例外状態においてはフェアプレイより決断を――手続き的正統性の重要さの減退
旧来の常識やシステムが失効し、二度の大震災とメルトダウンを経験した例外社会においてミステリはどうなるか。
理性を道具のようにつかい、人間を記号のように処理し、合理主義的につきつめれば真理に達することができる――それが本格ミステリがある時期まで前提にしえた価値観(人間観)だった。
中国人を重要な役割で登場させてはいけない、としたノックスの十戒は、ようするに文化的な価値観や行動原理の均質性を、近代経済学がえがいてきたような合理的な人間像を前提にしろ、という要請だった。
だが「大量生」の時代まで存在していた日本人の均質性や相互の信頼は、いまや崩壊している。
地下鉄サリン事件や酒鬼薔薇聖斗、宅間守、加藤智大が引き起こした殺人を経験した日本人は、実際の凶悪犯罪件数は減少しているにもかかわらず「体感不安」に駆られて監視カメラを増大させ、隣人が何をするのかわからないという恐怖と不信をかかえている。
また、原発事故のあとの情報の混乱や東電および政府の対応から、真実を知ることができない気持ちの悪さを強いられている。
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