第1章

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 であれば、これまで想定されてきた均質的な人間(=モノ)以外の行動原理、人間(=記号)らしくなくみえる論理構造が導入されることになるだろう。  あるいは、緊急時にはフェアで正統な手続きよりも、まずは発生した問題をどうにかして解決する方法さえあればよい――説明責任は事後に果たされればよいのだということにもなろう。  二〇一一年春、時の首相・菅直人は、国会で提出された内閣不信任決議案に対して詭弁を弄して回避し、首相に居座り続け、しかし震災後の有事に際してリーダーシップを発揮するでもなかった。  かような無能なリーダーの存在が日々報道されるような状況下では、「手続きの重視」なるものの無意味さ(国会の手続きに則って首相は不信任を回避されたのだから)はあらわとなっており、フェアプレイが重要な意思決定を遅らせるというマイナス面ばかりが強調されて目に入る。  さらには「真相が隠されている」という不信感の増大は、情報が揃わない状態での不完全で飛躍のある「推理」の暴走(妄想)、またはミステリ用語で言う「操り」の極大化とも言える陰謀論を誘発するだろう。  あるいは、たったひとりの天才がすべての謎を解決する、などということは巨大な事件の前では不可能であり(橋下徹でさえ「維新の会」を結成しなければ何もできなかった)、多様な才能をもった個人が寄り集まってできた組織が困難を解決するほうが自然に思えるはずだ。  それらが旧来的な謎―論理的解明の放棄としてうつるとしても、かつての平時とはもはや状況がことなるのであれば、そちらのほうがリアリティをもつ。  清涼院は『カーニバル』で描いた「犯罪オリンピック」を「見えない戦争」[インビジブル・ウォー]と形容していた。 「時代全体の閉塞感。終わりなき悪夢。絶望、恐怖、混沌。どれも『戦争』に当てはまる状況だ」と。  つまりJDCの探偵たちは「戦争」という危機を解決するのだ。  そしてこの戦争という用語は、否応なく笠井潔の大戦間探偵小説論を想起させる。
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