タイピング・64×75

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 あれ以来、週に一回水樹先生の研究室に遊びに行くことがわたしの日課に加わった。かしこまった口調が変わるのに、そう時間はかからなかった。わたしは自然と敬語を使わなくなり、先生の口調もくだけてきた。 「どうした?」  流れるように打つ……じっと先生の手元を見てたら、首を傾げられた。 「速いわ……」 「え? あぁ、タイピングか」  彼は手を止めて自分の手を見た。 「一分に何打くらい打てるの?」 「僕は620打くらいだ」 「620!?」    テーブルに張り付いてキーをみてたが、飛び起きた。一秒間に13回打てるって、どんな指の持ち主なの。 「まぁ長い時間タイピングをして、それを分数で割っているわけだから、打ち始めてすぐその速度にはならないが」 「速い……そして間違えないんだからすごい……」 「もっと速い人はいくらでもいる」 「それ以上はみんな一緒くたよ」  わたしは立ち上がってコーヒーのおかわりを入れに行った。もうここのコーヒービーカーの使い方は覚えた。そして好きに使ってという先生の言葉に甘えてよく飲んでいる。 「先生は企業のシステムエンジニアリングの職につくことは考えなかったの?」 「全く眼中になかったわけではないが……一企業に所属するのは、僕は向いていないだろう」彼は縁のない眼鏡を中指で押し上げてそう言った。 「なんで? 実力もあるし、実際商品になりそうなものを作っているのに」  教授陣のなかには、理論は教えられるけど実践はできないような人はいる。  マネジメントの教授なんて典型よね。”企業の経営はいかに楽しくやりがいのある仕事か”を説いているけど、それが好きっていうわりに本人は実社会に出て”企業経営”しようとしなかったんだから(大学に残らないと教授になれないんだし)。  じゃあ本当はそんなに好きじゃないんじゃない、なんて意地悪なこと考えちゃう。もしくは机上の空論なのかしら、とか。  だけど水樹先生は実践も問題なくできそうだった。
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