第1章

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 神林長平はキャリアの最初から「SF」というジャンルやことばに、さほどこだわりがないことを(神林はデビュー以前、探偵小説誌〈幻影城〉にも投稿していた)。  ぼくたちは語りたがる。  神林作品は「時代を先取りしていた」「普遍性がある」「いま読んでこそアクチュアルである」などと。  神林長平は「同時代の風俗やサブカルチャーとは無縁の、孤高の作家でありつづけてきた」などと。  だがしかし、「狐と踊れ」を読み、「ビートルズが好き」を読んだあなたは、一九七九年や八〇年にビートルズを引用することが、いったいどういうセンスなのか、おわかりだろうか?  このことを考えるとき、「時代を先取り」だとか「普遍性が」だとか「孤高の」というフレーズは意味をなさない。 「ビートルズが好き」は、最初に掲載された〈SFマガジン〉八〇年一二月号のキャッチに「ビートル・マニアは過去の遺物――でもその力は……」と書かれていた。  いまさらビートルズの曲名をつかってこんな作品書いて、なんなんだ?  とだれもが思った。  これは、同じ号に載っている「なぜか、アップ・サイド・ダウン」で、鈴木いづみが当時、社会現象になっていたYMOを小馬鹿にして「もう、みんなあきあきしてるんだよね」というセリフすら言わせていることを思えば、よけいに強調されるだろう。このズレかたは、なんなのか? と。  神林の音楽のセレクトはいったいどういうセンスで、どんな意味があるのか?  必要なのはいまいちど『狐と踊れ』を同時代の空気に、神林長平を同世代の作家たちとのあいだに置いてみることだ。  SFとサブカルチャーとの関係において、この著作はどういう位置づけになるのかを検証することだ。
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