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虚淵玄は何をインプットしてきたのか。
そして虚淵玄というフィルターは、どんな装置なのか。
どこが先行作家たちと比べて特異なのか。
どこが同時代の作家と違うのか。
そこに分け入って虚淵玄のおもしろさとは何なのかを見えるようにしたいのだ。
だがしかし、これらは日本における「活劇」の歴史を語るに等しい、途方もない行為である。
よって本稿のみで、そのすべてを網羅することはできない。
ここではあくまでその一端を、片鱗を考察してみたい。
■英雄譚を語るために
二〇〇〇年代以降に活躍している団塊ジュニア世代の作家を論じるならば、八〇年代のエンターテインメント作品を無視するわけにはいかない――という本稿とほぼ同じ主張を、私は過去にも行っている(「eternal return――虚淵玄論」、『ユリイカ増刊 魔法少女まどか☆マギカ』所収)。
今回は、その別バージョンというわけだ
世に問い糾したい思想なんてない。褒めてもらいたい独創性もない。ただ、いつか誰かに貰った種が心の中にあるだけです。ガンアクションが好きで、変身ヒーローや武侠片やサイバーパンクやコズミックホラーやマカロニウェスタンが大好きで、その好きっぷりがもはや自分一人の内側に仕舞い込みきれなくなって、こんな稼業についてしまいました。だから私がやってきたことは、いつだって二次展開だったんです。(『Fate/Zero vol.4「煉獄の炎」』TYPE-MOON BOOKS版あとがき、四四二頁)
こうした虚淵玄の発言自体が、それを証左している。
え?
二〇〇七年に発売された空想科学マカロニ大活劇『続・殺戮のジャンゴ』の元ネタはマカロニウェスタン、つまり六〇年代ヨーロッパでつくられた西部劇じゃないか。
冒頭で偉そうに調子に乗ってる金持ち連中が汚らしい暴漢に襲われるのはセルジオ・レオーニ監督の『続・夕陽のガンマン』モロパクだし。
と思うかもしれない。
それは間違っていない。
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