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麦酒
「…はい、昼砂(ひるすな)です」
幾度かのコールを経て、受話器の向こうから聞こえてきたのはどこか他人行儀な声だった。俺としては聞きなれた声なだけに、その他人行儀な響きはわずかに俺の心を締め付ける。
「…もしもし、真央(まお)。俺だけど」
「俺、じゃわかんないよ。最近はオレオレ詐欺も怖いからね、ちゃんと名乗ってほしいな」
「それはジジババに限った話だろうよ…。ああ、もういいよ。健だよ健、灰根 健(はいねけん)」
少し投げやりに自分の名を名乗ると、受話器の向こうから鈴が転がるような軽快な笑い声が聞こえてくる。
「あっはは、わかってるよー。ちょっとからかってみただけなんだからそんな本気でむくれないでよー」
「別にむくれてねえよ」
俺はその打って変わって軽快に話し出した声にため息を投げかけながら、にわかに座椅子から立って冷蔵庫へと歩き出す。真央はいつも、電話をかけたりかけてきたりする度に、あの手この手で俺をからかってくるのだ。その度に律儀に返す俺も物好きなのかもしれないが、俺としても別段嫌な気持ちになったことはない。何故なら。
「…彼女のやることくらい、顔色変えずに受け止めるのが彼氏ってもんだろ」
「…そ、そう。健ちゃんってさ、恥ずかしいことさらっと言えるよね」
「それもお前だけだ」
俺と真央は、付き合っているのだから。この位のじゃれあいなど日常茶飯事だ。俺はいつもこうして思いのたけを伝えているのだが、その度に真央は今まで饒舌に話していたのに突如口ごもり、ごにょごにょとはぐらかすような物言いになるのだ。人をいじるのは得意なくせに、いじられるのは苦手らしい。
「もう…。そ、それで?こんな夜中に電話してきて、何か用でもあったの?」
「…いや、特には。ただ」
「次にお前は!『ただ真央の声が聴きたくなっただけだ』と言う!」
「真央の声が聴きたくなっただけだ…ハッ!」
最早使い古された漫画の決め台詞に便乗すると、真央の嬉しそうな笑い声が耳朶を打つ。
「あっはは、わかってるよ。毎回健ちゃんはそうやって電話してくるからね。もう、寂しがり屋なんだからー」
「うるさい」
互いの事を、恐らく他人以上には知っているだろう俺達二人。しかし、そんな俺達を持ってしても、物理的な距離ばかりは埋められない。そんな二人を唯一結ぶ赤い糸は、この電話線ただ一本だけなのだ。
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