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江美里は今、札幌の市街地から車で一時間ほどのところにある温泉街の旅館に住み込みで働いている。
二十歳の女の子が住み込みで働いているのには、ちょっとした訳があって、その経緯を辿るとき、私はとてもやるせない気持ちになる。
ある一瞬を境にして、それまでの日常ががらりと色を変えることがある。
なんの前触れもなく、例えば幕が下りる一瞬の間や、地下鉄の扉が閉まる一瞬の間の出来事だ。
江美里の母親は彼女が小学校五年生のときに事故で亡くなった。同窓会に向かう途中で、運転していた車が対向車線にはみ出し、トラックと正面衝突をした。意識不明で運ばれた彼女は、搬送先の病院で息を引き取った。
新聞やテレビで報道されたよりも詳しい事情を知っているのは、その頃教育大学の学生だった私が江美里の家庭教師をしていたからだ。江美里が今でも私のことを先生と呼ぶのはそのせいだ。決して出来の良い生徒ではなかったけれど、彼女とは最初から気が合った。
小学生と大学生が、気が合うといのもどうかと思うけれど、ほかの生徒よりも気軽に付き合えたのが江美里だった。
その頃の私は、一週間のうち五日を家庭教師と塾の講師のアルバイトで埋めていた。
たとえ子供相手でも、人との付き合いは難しいと実感していた私には、江美里の家を訪ねる時間が息抜きのようなものだった。
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