3 日下部さんのこと

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今日も事務所に行くと、電話が鳴っていた。 デスクに向かおうとすると、バタバタと階段を駆け上ってくる音が聞こえた。 振り返ると日下部さんが、誰かと競い合っているみたいに全力で走ってくる。 いつ会っても、元気だなあと思う。 社長といっても年齢は三十代半ばで、朝野球も続けているせいか、他のスタッフよりも良く動く人だ。 日下部さんは私を追い越して受話器を取った。 電話を終えると、ようやく私の存在に気づいたかのように、近付いてきた。 「よお、久しぶり。ちょうど、理沙に連絡をしようと思ってたところだ」 「久しぶりと言っても、三日じゃないですか」 「そうか? そういえば無農薬野菜の取材はどうだった?」 観光客を相手に、北海道らしさを体験してもらうプランを掲載する企画も彼の発案だ。連載が好評で、広告を出したいというお店が殺到している。 無農薬野菜のレストランも、その一つだった。 「オーナーが良い人すぎるのも困りますね」 「なんだよそれ」 「帰りに持ちきれないくらいの野菜を持たされて筋肉痛になりました」 そう言うと日下部さんは、大袈裟すぎるリアクションで笑う。 こんなふうに笑われると、私は自分がとても面白いことを言っているような、楽しい気分になる。 それが日下部さんの特技だ。 立ち位置を気にせずに堂々しているのに、周りを和ませる気配りもある。部下からの信頼も厚く、取引先の人からも頼りにされている。 私もつい、プライベートな話題を口にすることが増えていた。たぶん以前なら、達郎とのこともすぐに話していたかもしれない。 相談というほど堅苦しい話し合いではなく、食事の最中やこういった雑談中に愚痴を零すことはよくあった。 でも、今は少し事情が違う。
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