【 桜 木 】

11/23
前へ
/121ページ
次へ
「まだ、お戻りではありません。ですが、すぐにお越しになるかと」  と、微妙にまた果心堂を無視する方向で、彼に向って穏やかに答えた。  有坂はいつも必ず、彼に涼を引き渡したことを確認してから、仕事に戻る。案外に心配性なのだ。 「宿も、今晩お食事戴くところもすでにご用意しております。ですが、まだ時間もありますし、まずはここでごゆっくり紅葉狩りなど楽しまれては? 他と違って、人も少ないですので」  大河内山荘は、昭和の映画スター、大河内伝次郎が、その映画での出演料の大半を投じて、30年以上かけ、徐々に買い進み、作りあげていた彼の別荘だ。  それが、回遊式庭園として一般公開されている。  入るために金がかかるが、他の寺社などに比べて、その値段設定が少し高い。なので、極端に客が少なかった。  ここに入ってグッと呼吸が楽になった事を考えても明白だ。  入場料がかさむかわりに、歌枕で名高いこの小倉山から臨む、嵐山の眺望を我が物に出来る。やっと、紅葉を楽しみに来たのだという気分が味わえた。おまけに抹茶と茶菓子のサービスまである。  おそらく彼らの待ち合わせ場所にここを選んだのも有坂の差配だろうが、本当に何かと細かい事にまで心配りのできる男である。
/121ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加