182人が本棚に入れています
本棚に追加
/40ページ
「社長があなたを落札したのは、あの事故のことだけじゃなく、ふたりで築き上げてきた会社や、レストランを失ってしまうことを、奥様に謝りたかったからかも知れません」
だから、私に絵梨子夫人を演じさせた……。
「でも、2度目の落札に関しては、ただ純粋に社長はあなたに会いたかったんです」
彼の声を、思い出す。彼の言葉を、思い出す。
「もう一度、妻じゃないきみと、キスしたいと思った。きみの身体に触れたいと思った」
その声と言葉は、私の心を温かくする。けれど、絵梨子夫人と秘書の彼女の気持ちを考えると、素直に喜べない。
「もう、社長にはオークションに使えるようなお金は残っていません。だから、私があなたに会うのも、これが最後」
秘書の彼女の顔には、少しだけ寂しさが浮かんでいた。私は、思いついたように言った。
「名前を、教えてもらえないかしら」
「私の?」
「そう、あなたの名前を知りたいの」
「……ミズホ。八木 ミズホ」
「ミズホ、か。いい名前ね」
彼女は、小さく手を振って、運転手に乗り込みドアを閉めた。
私は白いアウディが見えなくなるまで、そこで立っていた。
「さよなら……、ミズホ」
太陽が昇って、街は新しい1日を作り始めていた。
最初のコメントを投稿しよう!