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『それでも、その泥を塗る行為を含めておれなんだよ。おれにとって、音楽における創作はおまえを通じて世界を観ることだった。最後に、もうひと目だけでいい、観せてくれよ』
『その景色が醜いものだったとしたらどうする、ジャック』
『愛するさ、その景色も、それを観ようとしたおれも、それを観せてくれたおまえもだ、ユリシーズ』
バーカウンターにならんで座る男がふたり。マスターはバーの設備とともにシックな雰囲気を構築していて、ジャックたち以外にお客さんはいませんでした。
『俺はこれから時間をどぶに捨てる。俺としては間違った行為ではあるだろうが、正しいばかりにも疲れてきたところだ。俺の人生の一部を無駄にするんだ、最高の駄作にしてやろう』
ユリシーズがジャックを見るその眼光は月光のようでした。冬の冷たく澄んだ空気のうえに浮かぶ月のそれなのです。視線を受けてジャックはひと言、口にします。
『ありがとう』
衣擦れの音にひとしいかすかな感謝の言葉を、ユリシーズは『やかましい』とはねのけます。
やがて照れ隠しにゆるんでいた口もとがつむぐのは思い出話の数々で、ジャックはそれを懐かしみながら自分の居場所に帰ってきた実感でいっぱいになったのでした。
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