二 出雲の頭領

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 館の広間の開け放った南妻戸(みなみつまど)の近く、南廂(みなみひさし)簀子(すのこ)ごしに布都斯(ふつし)が座った。下春(したはる)和仁(わに)は布都斯の左に控えている。  この広間は、以前、寝殿と呼ばれていた所である。屋敷を囲んでいた丸太柵は櫓門(やぐらもん)だけ残して取りはらわれ、広場のまわりまで鉄穴衆(かんなしゅう)の家が建ちならんでいる。 「須佐郷(すさのさと)から、お願いにまいりました。これを受け取ってくだせえ」  村長(むらおさ)たちは広場に座って布都斯たちにあいさつし、一人が階段を上がって笹の葉の包みが入った籠を下春に渡した。(きび)のだんごである。だんごが入った籠は馬の背にも積まれている。 「須佐郷は山ばかりで、作れるのはこんな物だけだ。衣や茣蓙(ござ)は、なかなか、おらたちの手に入らねえ。娘たちにきれいな(きぬ)を着せてやりてえ。いい方法がねえだろうか・・・」  一人の村長が話しているあいだに、他の二人が馬から残りの黍の籠を降ろした。三人は布都斯と下春の知恵を借りるため、夜明け前に須佐郷を出て、五里あまりの遠路を訪ねてきたのだった。  須佐郷は木次郷(きすきのさと)の西五里にあり、石見(いわみ)へ抜ける山あいの要所である。須佐郷にかぎらず、山あいの郷の作物は(あわ)(ひえ)(きび)が多く、産物と呼べるのは狩りの獲物くらいしかないため、石見の郷の多くが海ぞいにある。そのため、出雲から須佐郷を通って石見へ行く者は少なく、多くの者が爾多郷(ぬたのさと)から海辺の郷ぞいに徒歩や馬で行くか、あるいは舟で簸乃川(ひのかわ)を下り、稲佐浜から行くかである。  遠呂智(おろち)も、この産物のない貧しい辺ぴな山郷を見かぎったらしく、須佐郷には農具を商っていなかった。
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