カギ

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藤崎くんの左目は、ほぼ見えていない。 見えていたとしても、わかるのは輪郭ほどで、さらに動けない藤崎くんから私の位置は死角だ。 それなのに、どこか、悪いことをしているような気分になって下を向く。 「『はい』…は?」 もう一度、ゆっくりと、確かめるように繰り返される。『はい』と言え! と、私にはそう、聞こえた。そうはわかっても、 「……いいえ」 私には、藤崎くんの望む答えをあげることはできない。 「選択問題ちゃうのにな~。『はい』って答えて下さいって俺は言うたんやけどな…」 独り言のように、ちょっと茶化した口調にしたのは、私も藤崎くんも傷つかないため? 心の中で、ごめん、と謝りながら、 「いいえ」 もう一度、今度は自分の心を辿って確かめるように返した。 私以外の人のことで苦しむ顔を見たくないと思った。その瞬間の顔を覚えておきたくなくて逸らした。 ゆっくりと視線を、藤崎くんに戻す。 “香月さん”にした質問に私が答えて、傷つけている。私も望んでそうしたわけではないけれど… 「……そっか」 明らかに声のトーンが下がった。 それからは何も言わずに、藤崎くんは、反対側に顔を向けてしまった。 「そうか…」 噛みしめるように、もう一度呟いて、手首の拘束が解かれる。 藤崎くん自身が痛くても、逃げて欲しくなくて掴み続けた私の手首は、少し赤くなっていた。 藤崎くんの気持ちが痛いほどに伝わってくる。 自分の方を向いて欲しかった。 それなのに、今、私たちは同じ位置に立って、同じ方を向いている。お互いに相手と向き合えない、叶わない恋をしている。 そろそろ、タネ明かしの時間だ。 立ち上がって、藤崎くんの枕元に進む。 コツ、コツ、一歩一歩進むたびに無くなってゆく二人の距離は、どんどん遠ざかるこれから先の未来へと近づいている。 「藤崎くん…」 腰を屈めて、名前を呼ぶ。 耳元のすぐ近くで呼ばれた藤崎くんは、驚いたように振り返った。 「見える?」 さらに顔を近づけて、お互いの呼吸が感じられるぐらいの距離で止める。唇まで数ミリのところ。藤崎くんの裸眼の左目では、これぐらいじゃないと見えないはず… 「わかる?」 わかってほしい。 わかってほしいけど、わかってほしくない。わかってしまうと、そこで最後になる。 矛盾する気持ちの中、一粒の水滴が、藤崎くんの頬に落ちて弾けた。 「菜央……なん…で?」 終わった。
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