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十九 捜査
九月十七日、水曜日、午前、長野県警本部。
長野駅の改札を抜けると、眼鏡をかけた禿頭の佐々木が、身体を揺すりながら手を振って愛想良く理佐と松浪の前へ歩いてきた。
「二人をお迎えに参りました。相田さんから連絡をもらいました」
佐々木は駅前から二人を車に乗せて県警本部へ向った。
車中、佐々木はハンドルを握り無言だった。
おそらく本間本部長の指示で黙っているのだろうと理佐は思った。
南長野幅下の長野県庁内にある長野県警本部に着いた。
日報新聞長野支局は県庁東の通りを隔てた南県町にある。
佐々木刑事に続いて九階の部屋に入った。
部屋の入口に、ここが捜査本部であると示す物は、何もない。
理佐と松浪を見て、中央の大きな机に座っている制服の男が立ち上がった。机の周りを囲んだ男たちが理佐と松浪に視線を移した。
「本間です。お待ちしていました。どうぞ座ってください。
この者たちは担当の刑事たちです。
この二人は長野中央署と南署の署長、田中と木村です・・・。
相田から二度、連絡をもらいました。相田とは大学の同期でしてね・・・。
重要な証拠と聞きましたが・・・・。まあ、座ってください」
席を離れた本間は穏やかな口調そのままの態度で、二人にソファーを示した。
「日報新聞の松浪です。こちらは野村です」
挨拶をすませた松浪と理佐はソファーに腰を降ろした。
本間がソファーに座ると、刑事たちが周囲に集まった。
松浪はポケットから透明なプラスティックの小さなケースと、レコーダーを出してテーブルに置いた。小さなケースには三錠の錠剤が入っている。
「これが、八月二十九日の十九時から二十時にかけて、小料理小夜の座敷に転げていた薬です。
当日、座敷にいたのは岡田幸雄、岡田幸一医師と康子夫人の三人でした。
なぜ、そんな状況になったのか、夫人の姉・大森春江さんが説明してくれました。
そして、二十九日当日の様子も、居合せた人たちから取材できました・・・」
「松浪さん。ちょっと待ってください。
佐々木君。これを、大至急分析してもらってくれ。君が戻るまで、録音を再生しないから、頼むよ」
「わかりました」
佐々木はケースを開けて、ピンセットで錠剤を一つつまみ、ポリエチレンの袋に入れると部屋を出て行った。
「君たちが来る事の他に、相田から、今朝、大森美奈が相田に会いに来ると連絡があったよ。三十分ほど前に再度連絡があって、録音した会話を伝送してきた。
僕らは大森美奈が語った事を知っているが、君たちは知らないから、佐々木君が戻るまでに説明しておこう。相田に頼まれているからね・・・」
本間は相田の連絡をかいつまんで説明して、テーブルのレコーダーを示した。
「相田は医院を捜査した方がいいと言っているが、この取材の録音を聞いてから判断する」
しばらくして佐々木が戻った。
松浪はレコーダーの再生ボタンを押した。
春江の声が聞こえ、康子夫人が岡田を強請っていた事実はまもなく否定された。
理佐に、佐々木の溜息に似た重苦しい息遣いが聞えた。ようやく佐々木は、岡田が事実を語らなかった事に気づいたようだった。
再生が進み、松浪の質問に春江と欽司と美奈が答えている。
やがて録音は相田の自宅の会話に変り、二時間ほどで再生が終った。
「なるほど、先ほどの大森美奈の話とこの録音を聞かなければ、相田の言う意味はわからんな・・・。
私が、なぜ君たち二人を呼んだか、その訳がわかったはずだ。岡田会長を長野中央署に任意同行してくれ。
岡田会長が長野南署に来るまでに、錠剤の分析が終るだろう。
康子夫人の体内に残っていた薬物と錠剤の成分が同じなら、捜査令状を取れ。
捜査個所は岡田医院と岡田発酵、岡田の自宅だ。
何を驚いてるんだ?早くしたまえ!」
はあ?と妙な顔をしたまま立っている長野南署の木村署長を、本間は鋭い目つきで見上げた。
「そう言われましても、容疑が確定しませんと・・・」
「何を言ってるんだ?薬事法違反だ!岡田幸一、岡田康子両名の殺人容疑じゃない。
もういい!君はここにいろ!いずれ、処分するからそう思え!
田中署長、佐々木君。岡田会長を長野中央署に任意同行してくれ。昨日の聞き込みで逃げた可能性もある」
「はいっ」
長野中央署の署長と佐々木たちは部屋から出ていった。
理佐と松浪は岡田の任意同行を取材しようと思い、腰をあげた。
「ああ、松浪さんたちはここにいてください・・・。佐々木君たちが岡田発酵へ行っても、おそらく岡田会長には会えんだろうから、今日は行っても取材はできませんよ・・・」
なぜだろうと思う理佐に、
「これから恥を晒さにいかん・・・」
と呟く本間の声が聞こえ、残された長野南署の署長がソファーの横に土下座していた。
「本部長。すみません・・・」
「君が何を言おうが、あの錠剤の分析結果ではっきりする。君も、それまでだ・・・。
署長!岡田会長の行く先を聞いていないのか?」
署長は床に座ったままだ。
「何も聞いてません。私が話したのは、昨日の大森春江の聞き込みが中止になった事と、新聞記者が嗅ぎまわっている事だけです。それも話の弾みで出ただけです。決して本部長が考えるような・・・」
「何だね?私が何を考えてると言うのかね?」
「買収されたと考えているんでしょう?そんな事はありません」
「そんな事はいずれはっきりする。
それより、岡田に何を話したか、説明してもらおうじゃないか!
さあ、説明したまえ!」
「我々の聞き込みに代り、新聞社が大森春江を取材する事になったと」
「他には?それだけじゃないだろう?」
「いえ、それだけです・・・」
「いつですか?それを岡田に話したのはいつですか?」
理佐と松浪の顔色が変っている。二人は床に座っている署長を睨みつけた。
「昨日の夕方、たまたま繁華街で出会い、夕食に誘われて・・・」
昨夕以前に、岡田は小料理小夜に電話をしている。長野県警の刑事が聞き込みに来たと春江から聞いた後で、岡田は署長に会い、春江の話が嘘だと知ったはずである。
当初、理佐たちは、小料理小夜の定休日の水曜日に、春江を取材できると聞いていた。それが、岡田の脅しから昨夜、火曜の夜になった。
そんな事を知らずに岡田は、今日水曜に、春江が理佐たちの取材を受けると思い込んでいるかも知れない。岡田が不在で、しかも都内へ出かけたなら、行く先は小料理小夜しかない。
「健ちゃん。岡田が都内へ向ったなら、春江さんが危ないよ!」
「わかってる。
本間さん。どうします?美奈さんは相田さんといるから安全だが、春江さんは店に残ったままだ」
電話が鳴った。本間はソファーから机の電話に駆け寄り、スピーカーモードのボタンを押した。佐々木のきびきびした声が響いた。
「本部長。岡田会長は不在です。秘書が会長に本日のあさま五一八号の指定席を用意したと言っています。あさまは十一時三十一分に東京へ着きます」
時刻はすでに十一時二十分を過ぎている。
「上野は止まらんのか?」
「止まりません」
「わかった!佐々木君。いったん戻ってくれ!
松浪さん!警視庁に大森春江を保護してもらう!君は大森春江に連絡を取れ!相田にも動いてもらうんだ!」
「はいっ!」
佐々木の電話を切ると、本間は警視庁に緊急連絡を入れた。
松浪は携帯で小料理小夜に電話したが、繋がらない。
「くそっ、こんな時に・・・」
本社の相田に電話したが、相田の携帯にも繋がらない。
松浪は急いで社会部に電話した。
「大至急、相田編集長に変ってくれ!なに!いない?どこへ行った?」
要領を得ない編集者が副編集長に電話を代った。
「副編集長。相田さんに緊急連絡あり!急いで探してください。連絡事項は、
『岡田が都内へ向った。十一時三十一分東京着。行く先は小料理小夜のはず。春江さんが危ない!店に電話しても繋がらない!小料理小夜へ急行されたし。長野県警の要請です』
以上です。相田さんに知らせてください。岡田の顔を知っているのは春江さんたちだけです!」
「了解!おいっ、編集長を探せっ!緊急だ!
応接で大森美奈に会ってたんだが・・・。
見つけたぞ。受付で捕まえた。ちょっと待ってくれ。回線を切り替える・・・」
副編集長が電話を多重回線に切り替えた。
「編集長。松浪から緊急連絡。
『岡田が都内へ向った。十一時三十一分東京着。行く先は小料理小夜のはず。春江さんが危ない!店に電話しても繋がらない!小料理小夜へ急行されたし。長野県警の要請です』
回線を切り替えました。松浪と話してください」
「了解した!
岡田は上野で下車しないのか?」
相田の質問に松浪が答えた。
「岡田が乗ったあさまは上野に停止しません。岡田の行く先は、小料理小夜のはずです。
本間さんが警視庁に春江さんの保護を頼みました。店に電話しても繋がりません!
岡田の顔を知ってるのは春江さんだけです」
「わかった。すぐ、店に行く!
副編集長。山崎教授との約束、君から事情を説明して断ってくれ!
美奈さんはここから春江さんに電話するから、副編集長の君が責任を持って美奈さんを保護していてくれ。くれぐれも頼む!」
「わかりました!すぐそちらへ行きます!」
相田は松浪との電話を切ると、受話器を美奈に渡した。
「美奈さん。君はここから春江さんに連絡するんだ。戸締りして、人が来ても中に入れるなと伝えるんだ。僕はすぐに店へ行く!」
受付の女性に、
「副編集長が来るまで、この人を頼む!」
と言い残して、相田は新聞社を飛び出した。
時刻はまもなく十一時三十分になろうとしていた。
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