七 刑事

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七 刑事

 九月十六日、火曜日、日報新聞社。  翌朝。理佐と松浪は理佐の実家がある杉並から大手町の日報新聞本社へ出社した。 「どう出ると思います?」  相田の机の前に立って、松浪は言った。 「水曜までと言うのだから、考えるまでもないだろう」 「大森春江は目と口元が康子夫人に似てますね。髪を染めたら、もっと似てくるでしょう」 「美奈さんも似たとこがあるわ。調べますか?」  理佐は運んできたコーヒーを相田の横のテーブルに置いた。 「必要ないだろう。遅くとも水曜にはわかる事だ・・・。  岡田医師の原稿、岡田会長からオーケーが出たよ。当然だがね」  相田の机には、 「これで弟も救われます。記事にしてください」  と書かれた岡田会長からのファックスがある。  相田はタバコを咥えて火をつけた。相田の顔に、昨夜、若女将が大森美奈と名乗った時の戸惑いはなかった。  相田の前の机で電話が鳴った。  電話に出た女性編集者が受話器を押さえてふりむいた。 「長野県警の刑事が、編集長と過労死担当に会いたいと言って来ています。どうします?席を外しているから探すと言っておきましたけど・・・」 「受付にいるのか?」 「ええ、連絡を待ってます」 「わかった。ちょっと待ってくれ。  二人とも座ってくれ。僕としては、春江さんが我々に情報を入れるまで、刑事を会わせたくない」 「僕もそうですね。編集長があそこまで話した手前、刑事が乗りこんだら、全ておじゃんですよ」 「理佐は?」 「私もそう思うけど、刑事をあの店へ行かせないためには、こちらの情報を提供する必要があるでしょう?そうしないと納得しないと思うわ」  理佐は、春江と美奈が直接事件に関係したとは思えない。 「そうだな。会ってみるか。  刑事を社会部の応接に通してくれ!すぐ戻る・・・」  相田は女性編集者に言いながらタバコを灰皿に揉み消し、立ちあがって社会部から出ていった。 「春江さんと美奈さんは、他人に話せない事があるんじゃないかしら。刑事が行っても、何も話さないと思うわ」 「そうだろうね。水商売の人は客を見る。刑事が一歩店に入ればわかるからね」  松浪は落ち着いている。  しばらくして相田が陽気な顔で戻った。 「うまく交渉できた。この録音を刑事に聞かせる・・・」  松浪にレコーダーを渡した相田は、 「こちらの情報を渡す代りに、小料理小夜の聞き込みを遠慮してもらう」 と言った。  長野県警の刑事は小柄の小太りで、禿頭のお多福顔が垂れた細目に眼鏡をかけている。名は佐々木と言った。  刑事より田舎教師を連想させるのんびりした風貌に、理佐は吹きだしそうになった。  「もう一度確認するが、このビルから出たら、どこへ行くつもりかね?」 「もちろん長野へ帰ります。今日は、あなた方がどこまで取材しているのか、確認するのが目的ですから・・・」  穏やかそうに見える佐々木刑事は最後の言葉を濁した。見た目どおり正直に、まっすぐ長野へは帰らないと態度が語っている。 「わかった。その前に聞いてほしい物がある。松さん。頼むよ」  松浪はレコーダーをテーブルに置いて、録音を再生した。  声の主は相田ともう一人、理佐の聞き覚えのない男の声だった。  やがて、相田と男との交渉が佐々木刑事へのメッセージに変った。 「佐々木君。都内の聞き込みをただちに中止して、長野に戻ってくれ。  情報提供者は我々警察が次の条件を守ることで相田たちに情報を提供する約束をした。  事件が解決するまで、我々警察が情報提供者とかかわらない事。  事件解決後は、報道機関が情報提供者にかかわらないよう、我々警察と相田たちが情報提供者を保護する事。 これらを守れば、相田たちは、今までに得た情報とこれから得る情報を全て我々に提供すると確約してくれた。  私は、情報提供者が提示した条件を守る事と、提供された情報を外部に漏らさない事、さらに我々の情報を相田たちに提供する事の、三つを確約した。  君にとって不本意だろうが、より正確な情報を迅速に得るため、指示に従ってほしい。 相田たちの情報を得たら、我々が得た全てを説明し、佐々木刑事は速やかに長野県警戻ることを命ずる。  以上の事を、私、長野県警本部長・本間宗太郎が公の立場で、日報新聞社会部編集長の相田牧男氏に確約した。よろしく頼む」 「そんな、なんてこった。電話させてください!」  佐々木は顔を赤くして立ちあがった。ポケットから携帯電話を出して部屋の隅へ歩いている。 「本部長の本間が直に指揮している事件とは驚きだね・・・。  我々も甘く見られたものだ・・・。  どうぞ、好きなように・・・」  相田の言葉で、佐々木は電話するのをためらった。 「くそったれめが・・・」  と呟いて携帯電話をポケットに入れながらじっと壁を睨みつけて大きな溜息をついた。  しばらくすると佐々木は穏やかな顔でソファーに戻って、磨り減った革靴に視線を落とした。 「わかりました。揉め事は避けましょう・・・。  岡田医師の奥さんは岡田幸雄から多額の金を受け取っています。理由はわかりませんが、強請っていたと見るべきでしょうな・・・」  意外な言葉に理佐は耳を疑った。  佐々木は調べた内容を詳しく説明した。  企業拡大を進める岡田醸造は岡田酒造設立に続いて岡田発酵を設立した。  岡田発酵が新薬を手がけて以来、康子夫人は会長・岡田幸雄から何度も多額の現金を受け取っていた。額が最も多いのが長男の私立大学の入学金に当てられたが、他の使途は不明だった。 「医院で新薬の臨床試験が行われていたらしいです。もちろん、患者から確約書を取ってです。臨床試験には謝礼が支払われ、後遺症が出た場合は治療するとの確約書です・・・。  臨床試験は入院患者を使って行うんです。入院患者は医者じゃありませんから、どこからが新薬の後遺症だなんて事は、患者にはわかりませんなあ・・・」  批判的に語った佐々木は自分の考えを言った。 「岡田医師は強請った金を臨床試験の謝礼にしたか、臨床試験の後遺症の示談金にしたんでしょうな・・・」 「康子夫人の死亡を、自殺に見せかけた殺人だと言うのか?」  相田は佐々木を睨んだ。 「結論から言えば、そのようになりますな・・・」  やはり佐々木刑事も、奥さんが殺害されたと考えている。でも、なぜ先生の死亡について話さないのか? 理佐は不思議だった。 「奥さんが発見される前夜、つまり、岡田医師の初七日の夜、奥さんが行方不明になりました。その事を知って、長男・幸一郎と長女・幸子の両名が警察に捜索願いを出そうとしましたが、岡田幸雄は何食わぬ顔でそれを止めてます。夜明けを待って岡田発酵の社員を集め、奥さんを捜索させると長男に話してます。  これは長男・幸一郎の証言です。  再三にわたる奥さんの強請に腹を立てた岡田幸雄が、何らかの手段に出たんでしょうな」  佐々木は説明を終えた。 「聞き込みでわかったのは、それだけか?」  また、相田は佐々木を睨んだ。 「そうです。薬に詳しい専門家がたくさんいます。夫人を自殺に見せかけるのは可能だと思いますよ」 「本間は岡田医師の死亡をどう見ている?」  相田は佐々木の言葉を待った。  応接間に沈黙が流れた。佐々木がふっと笑顔を見せて禿げ頭に手を当てた。 「いや、参りましたなあ。やはり、そこまで気づいていましたか・・・」 「佐々木さん。あんたはこの録音の意味がわかっていないようだ・・・。  強請のために夫人が殺害されたなら、夫人が強請っていたと知る者にも殺害の手が伸びる。それに、夫人が殺害された理由は、強請じゃないだろう?」   「岡田医師が殺害されたと立証するのは、非常に難しいですな。死斑は布団に寝たままに出てます。新幹線で長野に帰った医師が急性心不全になった。不自然な点はありません。  あまりに自然過ぎるのも気になりますがね・・・。  二十九日の岡田幸雄は大豆の買い付けで日本橋の商社へ出かけ、上野駅から医師が利用したのと同じ新幹線で帰ってます。グリーン車だったので、医師と顔を合わせてません。  長野駅を出た岡田幸雄は、東口から地下駐車場に駐車した自分の車を使い、岡田医師たちは西口からタクシーを使ってます・・・」 「日本橋から新幹線を使うなら東京駅だろう?  なぜ、上野駅なんだ?」 「取引先の商社マンが、アメ横を歩きたいと言う岡田に付き合った後、新幹線の発車時刻に間に合うように上野駅まで送ったと証言してます。  現物を見て取り引きする御時世じゃありません。電話やパソコンで取り引き可能なのに妙です。明らかに岡田幸雄はアリバイ工作してます。商社マンを買収したんでしょうな。奥さんの件がはっきりすれば、真相はすぐわかりますよ」 「別件か?」 「そうです。話す事はこれだけです・・・。  ああ、これが残ってましたな・・・」  佐々木は手帳のページをめくった。  佐々木は、岡田医師の葬儀に行って追い返された康子夫人の兄から、夫人が岡田幸雄を強請っていた証言を得ようとしていた。 「兄は小沼勇造。現在は外食産業を手広くやってますが、元を正せば的屋ですな。  現住所は埼玉県です。台東区の実家は妹夫婦に売りつけてますな。  言問通りから裏通りに店を移したのが妹の春江で、亡くなった康子の姉です。  現在の姓は大森ですな」  やはり、大森春江は康子夫人の実姉だった・・・。  これだけですと言う佐々木は、聞けば調べた情報を次々に話しそうだ・・・。  佐々木はどこまで知っているのだろうと理佐は思った。 「今回の事件で容疑者が調べられた場合、医院の新薬臨床試験が社会問題になると思わないか?」 「いえ、そうは思いません。  亡くなった奥さんに簡単に近づけたのはただ一人です」  佐々木から、相田の質問と異なる返事が返ってきた。  相田は、岡田医師が行ったと推測される臨床試験を気にしているが、佐々木は臨床試験に関心がなさそうだった。 「では、康子夫人殺害は、岡田幸雄の単独でと考えているわけか?」 「相田さんはそうでないと?」 「岡田医師の事件では、医師が死亡したと知らずに、複数の人が動いた可能性がある」 「と言うと?」 「まず、医師が倒れたのは都内だ」 「詳しく話してください!」  身を乗りだした佐々木に、相田は知っている全てを話した。 「わかりました!調べる事が出てきましたから、私は長野へ帰ります。  グレーの高級車とゆすりは相田さんが調べてください。医師の死亡時の状況も頼みます。  私は奥さんが死亡した当日の岡田幸雄のアリバイを、もう一度調べます」  佐々木はあくまでも康子夫人殺害を優先している。  理佐は、妙だと思いながら松浪を見た。  松浪も妙だと思っているらしく、理佐に目配せして相田に頷いた。 「夫人が殺害されたと判断した物的証拠は何だった?」  またまた、相田が佐々木を睨んだ。  康子夫人が医院から消えた時、まっさきに捜索したのは岡田発酵の社員だった。指示は会長の岡田幸雄しか出せないはずだ。岡田幸雄は奥さんが死ぬのを知っていた、と理佐は思った。 「いや、まだ、そんな物は判明してません」  佐々木は手帳を閉じて目を伏せた。 「そんなはずないだろう!  肺に水が溜まっていない溺死体から、何を検出したんだっ?」 「本当に、まだ、あれが何か判明していないんです!」  相田の気迫に、佐々木が思わず口を滑らせた。  しまったと佐々木の顔色が変っている。 「なるほど。やはり、夫人の遺体に薬物が残っていたか・・・。  それで、殺人と断定したんだな・・・」  相田が佐々木を睨みつけた。  佐々木は慌てて話題を変えた。 「医院の近所の主婦が、医師が亡くなった日から奥さんが自殺する日まで、医院から毎夜のように、奥さんを罵る岡田幸雄の怒鳴りの声が聞こえた、と話してます。  ほとんど脅迫ですな」  なぜ、佐々木は夫人の遺体に残っていた薬物について話そうとしないのか・・・。  理佐は不思議に思った。 「だいぶ岡田会長を調べたようだが、最後に会ったのはいつだ?」 「昨日の夕方です。これでは、立場があべこべですなあ」  佐々木は禿頭に手を当てて笑いながら俯いた。 「我々の取材が昨日の午前中だったから、佐々木さんはその後に会ったわけか?」 「ええ、そうです・・。くそっ、なんてこった!」 「どうする?これで、本部長との確約が無駄になるかもしれんな・・・」  佐々木は返事できなくなった。  松浪は相田に、 「ちょっと席を外します」  と言って、理佐を連れて応接室を出た。  廊下へ出ると、松浪は険しい顔で眼鏡を外した。目頭で鼻筋を摘まみながら歩きだした。 「あの刑事には困ったな・・・」 「確約が無駄になるって、もしかして、春江さんと美奈さんの身に何かあるってこと?」 「岡田会長が犯人なら、関係した人たちが真相を話せないようにする・・・」 「口封じってこと?」 「うん・・・」  自動販売機の前までゆくと、松浪は財布の小銭入れを逆さにした。百円硬貨が一枚だけ手に乗った。 「百円なら何枚かあるわよ。  岡田会長が動くかしら?」  理佐はジャケットから小銭入れを取りだして、松浪に渡した。 「わからない・・・。  三枚、借りるよ」  松浪は自動販売機に百円硬貨を入れた。  カタッと紙コップが出て、コーヒーが注がれていった。  コーヒーが満たされた紙コップを取りだすと、松浪はふたたび販売機に硬貨を入れた。  理佐は、なぜ皆が康子夫人の異体に残っていた薬物について話さないのか疑問だった。 「健ちゃん。奥さんの遺体に残っていた薬物をどう思う?」 「奥さんが自分で飲んだのか、岡田会長に飲まされたのかわからないから、薬物が判明しても、今は何も言えない・・・。  今は、会長の動きを警戒がすべきだが・・・」  理佐にコップを二個持たせ、松浪は一個持ったままで最後の一個を取りだした。 「早く、大森春江が連絡してくれないかな・・・」  と呟いた。
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