十七 誤算

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十七 誤算

 昭和四十六年。 醸造化学科を卒業した幸一は酵素研究のため生体化学科に籍を置いた。  医学部の入試が半年後に迫った頃。客足が途絶えた店で、幸一は勇造と話していた。 「勇さん。また、中東情勢が悪化したら、今度は、あらゆる物が不足するかもしれませんよ」  新聞を見ながら幸一は呟いた。膝には四歳の美奈が座っている。 「どうすりゃあいい?」  そう言って勇造はカウンターの二つのグラスに冷酒を満たした。勇造の膝に欽司がいる。 「まだ不足するって決まってないですよ。不足するかもですよ」 「だけど、また、あの砂漠の国が揉めれば、日本に原油が来なくなるのは俺でもわかる。  それで、そうなったら、どうするんだい?」  幸一は新聞の記事を話題にしただけだったが、グラスを手にした勇造は真顔になった。「もし中東情勢が悪化したら、物が不足する前に、必要な物を備蓄するしかありません」 「腐る物はだめだな。燃料、調味料、小麦粉などの穀物加工品、そんな物か?」 「国内のエネルギーは大半が原油に依存しているから、全ての物が不足するはずです」 「これもか?」  勇造は割り箸を取った。 「もちろんです」 「こんな物までとなりゃあ、備蓄するったって、とてつもねえ資金がいるぜ・・・。  今の小沼興業には半年分の緊急予備資金しかねえ・・・」  途中から勇造の声が小さくなった。 「確かにかなりの資金が必要になりますね・・・。  原油の不足など考えずに、今から備蓄するのが無難かもしれない・・・」  幸一は何か考えているようだった。  そうは言っても、金がなければ物資は手に入らない。備蓄する倉庫は商売柄なんとかなる。金さえあれば・・・。欽太郎も、今の俺みたいだったんだろうな・・・。  勇造は亡くなった欽太郎を思い出した。 「資金はなんとかなります。あれ以来、僕は遺産を受け取っていない。僕の分はまだ九割以上残ってる・・・。  中東情勢が悪化すれば、チャンスかもしれません・・・」  幸一はグラスの酒をいっきに飲み干して説明した。  物資を備蓄した後に中東情勢が悪化すれば、国内に原油不足が起こって、物価が急騰する。当然、備蓄した物資の販売益を得る。  原油不足が起こらなくても物価は年々上がる。安く大量に物資を仕入れたら、それだけで原材料の値上がり分をいくらかでも低く抑えられる。  いずれにしろ、物資を備蓄して損はない。  だが、幸一が、チャンスかもしれないと考えたのはそんな事ではなかった。 「物価が急騰したら、どうなると思います?」 「うちみてえな零細企業はどんどん潰れるぜ」  幸一は広げていた新聞を片づけた。幸一の膝で美奈が勇造を見て笑っている。 「でも小沼興業は潰れません。資金があって、原材料を備蓄できますからね・・・。  原材料を備蓄できなければ、赤字になる同業店が増えます。そうなればそれらを買収するか、あるいは利権を手に入れて、小沼興業をさらに大きくできますよ」 「資金があるって、あの念書を使うんか?そりゃいけねえよ。なぜって説明できねえが、何か、後味が悪いじゃねえか。それに、物価が急に上がると決まっちゃいまい?」 「母の遺産はいずれ全額受け取るんだから、早く手に入れた方がいいんです。あの念書は公にしません。兄に条件をつけようと思う」 「幸さん。おめえ、何を考えてる?」 「チャンスが来ますよ・・・。  大森さんが勤めていた商社を通して、中東状況を調べてもらいましょう・・・。  会社が大きくなれば、この子たちの未来が拡がる・・・」  幸一は勇造の膝に座る欽司と、幸一の膝にいる美奈の頭に手を乗せた。  その年の秋。  岡田幸雄に条件をつける機会が訪れた。  穀物を買い付けている商社との恒例の打ち合わせで、岡田が都内に出てきた。  小料理小夜に岡田が現れると幸一は、 「以前から話しているように、将来、岡田醸造を製薬会社にしてらいい・・・」  と切り出した。 「お前の言う事はわからん・・・」  岡田は杯に酒を注ごうとした。銚子が空と気づき、春江に空の銚子を振って見せた。 「女将。熱燗をくれ」  春江は口を開かず会釈しただけだった。 「これから何が儲かるか、良く知ってるじゃないか」 「それは、まあな・・・」  岡田は肥満した指で割り箸を取った。蟹が餌を喰うように箸の先で和え物を摘まみ、口へ運ぼうとしたが、途中で箸を止めた。 「だが、技術者がおらんのだ・・・」  と言って俯き何か考えている。 「専門家を集めればいいじゃないか」 「他人は信用できん・・・。帰ってこい」  そう言うと、酒と思考で頭に血が昇った岡田は、箸の先に摘まんだ和え物を分厚い唇の間へ入れて、赤紫にむくんだ頬を大層げに動かしている。 「長野には弟二人がいる」  幸一はグラスを飲み干した。  春江が岡田の前に熱燗を置いた。  岡田は熱燗を取って杯に注いだ  春江はカウンターの内から空になった幸一のグラスを取った。一升瓶の冷酒を満たし、ふたたび幸一の前に置いた。 「お前しか信用できん。奴らは何を考えとるのかわからん。奴らは他人だ」  そう言って岡田は杯を飲み干した。  春江は岡田の前に二本目の熱燗を置いた。話を聞いていない素振りで調理場へ戻った。  岡田は銚子を取って杯に注いでいる。 「そりゃあ、兄さんから見たら、みんな他人さ」 「そうじゃない。お前にとっても他人だ。親は誰か、皆目不明だ」  幸一はカウンターのグラスを取って言った。 「二人の戸籍も偽造したのか?」 「私の戸籍は偽造するしかなかった。会社を切り盛りできる相続人がいなければ、岡田の家はあの馬鹿な親戚たちの好きなようにされて、会社の資産を管理していた連中や、従業員に分配されるはずだったからだ。  一人分の偽造に孤児の二人が増えて、岡田の直系がお前一人から四人に増えても、大した事はない。その結果、会社は生き残り、従業員に職が残ったんだ。誰にも迷惑はかかっておらん。  お前がただ一人の直系だから、いずれはお前が会社を継ぐべきだと思っとる・・・」  岡田は器を見つめたまま、割り箸の端で和え物を摘まみ、分厚い唇の間へ運んだ。貪欲な肉食獣が間違えて海草を食べるような奇妙な光景だった。 「あの念書が公になれば、相続人は僕一人。兄さんだけじゃなく、弟たちも岡田の家から放り出される。  僕がそこまでやらないと踏んだのかい?それとも正当な相続人は僕一人だけと煽てて、会社経営に引きこむ気かい?  念書が公になったら、これまで立場を偽ってきた兄さんはどうなるのかな?詐欺か?」  せせら笑うように話す幸一に、岡田は話す言葉がなかった。 「何も言えない所を見ると図星だな。  こんな事もあろうかと弟二人の素性も調べたよ。母親は岡田絹江、父親は絹江の従兄弟の岡田潔人。僕の両親と同じだ。二人とも実の弟だよ。念書を公にしても、何も困らない。  とりあえず四千万だ!」  岡田はがっくり頭を垂れた。 「お前には負けた。明日にも四千万を銀行に振り込む。  だが、遺産の残り全額は用意できん。会社を大きくしたいんだ。これから金が必要になるんだ・・・。  どんな条件でも聞くから、何としても長野に戻ってきてくれんか・・・」  岡田は幸一から醸造会社の未来を説明された数年間に、酒造会社と製薬会社設立を計画していた。  酒造会社は岡田醸造の酒造部門を別会社にして独立運営するため、新会社の登記だけですむ。資金が必要なのは、醸造のための発酵技術の研究を基礎にした、医薬品専門の製薬会社だった。設備と技術者に膨大な資金が必要になりそうだったのである。 「何度も言うが、それは僕の都合じゃない!僕は母さんの遺産を手に入れるだけだ。  遺産の管理者でも正当の相続人でもない者に、とやかく言われる筋合いはない!」  バシッとカウンターを叩き、幸一は仁王立ちになった。 「五年以内に、遺産の残り全額を揃えろっ!」 「金を揃えたら、長野に来てくれるか?」 「全額揃えたら考えてやる」 「どうして五年なんだ?」 「来春、医学部へ入れば、医学部進学過程が免除になるが、国家試験を受けるまで、最低五年はかかる。その間が猶予期間だ。  その時が過ぎたら岡田醸造の経営者が弟たちになると思え!」 「わかった・・・。五年だな」  呟くように言うと、岡田は明るい顔で、 「女将。じゃましたな。釣りはいらん」  春江に支払いをして席を立った。  しまったっ!興奮して医学部進学を話してしまった。長野に戻る気はないのだ。今さら何をするか、断らなくていい。態度の割りに明るいこの顔は、何かやる気だ・・・。  入口の引き戸へ歩く岡田を見て幸一は不安を覚えた。  岡田が小料理小夜を出るのと入れ違いに勇造が帰ってきた。 「今、出てったのは幸さんの兄貴か?」 「ええ。近いうちに四千万が入りますよ」 「ほんとかっ?本当なら助かるぜ!」  勇造は小沼興業の事業拡大に乗り気で、仕事の合い間にめぼしい物件を探していたが、これまで資金の目途がつかず不安だったのである。  商社に依頼した大森の調べで、中東情勢は確実に悪化していた。だが、世間はまだ経済成長の大船にどっかと胡座をかいて乗ったまま、近い将来訪れるであろうエネルギー危機の大波に無頓着だった。  先を読んでいるのは俺たちだけだ。いずれ、世間の奴ら、あっとたまげるぜ・・・。  店を何軒も手にした日を思うたびに、勇造はチャンスが勝手に転がり込んでくるように思えて小気味よい興奮が止まらなかった。同時に、中東の不幸な情勢に便乗する自分が、後ろめたくもあった。  その年。小沼興業は幸雄から振り込まれた四千万円を元手に原材料を備蓄し、その後の中東情勢の悪化による原油高騰期を乗り切った。  幸一が予想したとおり、小沼興業は同業の中小企業を買収して、企業規模を拡大していった。  それから五年後。幸一が医学部を卒業して医師国家試験に合格した。  翌年の秋。小料理小夜に岡田が現れて小切手をちらつかせた。幸一が指定した猶予期間の五年目だった。 「それとな。社員専用の医院を川中島に建てたぞ。あの辺は、うちの社員に会社が土地を斡旋した場所でな、岡田団地と呼ばれとる。  女将。すまんが熱燗を頼む。肴は、秋刀魚を焼いてくれんか」  岡田はカウンターに小切手を置いて愛想良く春江に注文したが、その表情はどことなくぎこちない。何か隠しているように思えた。  幸一は小切手を見直した。  小切手には三億三千六百二十五万円が漢数字で書かれている。これは遺産の一部を受け取った昭和四十二年の残高から四千万円を差し引いた額である。十年過ぎても幸一の念書を理解しない岡田の偏屈だった。 「大森さん!」 幸一は店の奥、小沼興業の仮事務所にいる大森を呼んだ。  大学病院勤務で忙しい身の幸一は、これから起こるであろう事態に、岡田が話を簡単にすませてくれるのを期待した。 「遺産の残り分を計算してください」  しばらくして大森は計算し終えた。カウンターの小切手を見て不審な顔をしている。 「三億三千六百二十五万では足りませんね。半分にもならない・・・」 「何だと!」  岡田が立ち上がった。下唇を突き出してふてくされるように大森を睨んでいる。分厚い唇が紫色から土色に変っている。 「あの時から物価は三倍以上。土地価格もスライドしています・・・」  大森は興奮している岡田をなだめるように穏やかに説明した。  幸一が昭和四十二年当時に受け取るべき遺産総額は三億八千六百二十五万だった。昭和四十二年に最初の一千万円を受け取り、昭和四十六年に四千万円を受け取っている。  幸一が受け取るべき遺産のほとんどが固定資産である。  幸一が岡田に渡した念書には、岡田家の固定資産を中心とする遺産を、受け取り時の評価額に換算した上で、総資産の四分の一を幸一が受け取る旨が綴られている。 「そう言う事ですから、全て現在の土地評価額に換算します・・・。  昭和四十二年に一千万を受け取りましたから、当時の残高は・・・、三億七千六百二十五万です。  これを四十六年当時に換算すると五億六千四百三十八万。これから四十六年に受け取った四千万を引くと残高は五億二千四百三十八万。  この残高を現在に換算すると十億四千八百七十五万。ここから小切手の額、三億三千六百二十五万を引いて、残額は七億一千二百五十万です。  パーセンテージで示しましょう。  四十二年当時に受け取るべきだった遺産の総額は三億八千六百二十五万でした。現在に換算すると、十一億五千八百七十五万になります。残額が七億一千二百五十万ですから、遺産の残額は六十一・四九パーセントです。従って株券は渡せません!  遺産はほとんどが固定資産です。四十二年当時の遺産残額に土地評価額の上昇率を乗じて現在の遺産残額を算出しましたが、四十二年当時の私の土地評価額が低かったので、実際に現在の土地評価額を使えば、遺産総額はさらに跳ね上がって十二億一千三百万。遺産残額は六十一・四九パーセントを越えます」  大森の説明を聞き、岡田は歯を噛みしめて大森を睨みつけた。肥満した手を握りしめる岡田の脂ぎった頬は赤紫に変り、細い目が異様に歪んで吊り上がっている。まさに爆発寸前に見えた。 「聞いたとおりだよ。兄さん。僕の受け取り分は、六十一パーセント以上残っている」  幸一は岡田の罵声が店に響くのを覚悟して静かに言った。  予想に反して岡田は俯いた。興奮を抑えて遜った態度になった。  今度は泣き落としかと幸一は思った。 「残りをすぐには用意できん・・・。金が要るんだ。製薬会社設立のためじゃない・・・。  医院の馬鹿医者が治療をミスした。金で示談にできなければ裁判沙汰になりそうなんだ。  頼む!助けてくれ!儂を会社から放り出さんでくれ!お願いだ!」  カウンターの椅子を降りて岡田は通路に土下座した。鼻にかかった声で何度も、お願いだとくりかえした。  この日も、岡田が小料理小夜を出ると、入れ違いに勇造が帰ってきた。 「おう。今、外で、幸さんの兄貴とにすれ違ったぜ」  店に入った勇造は縄暖簾の外を指さした。 「ええ、そうです。これを持って・・・」  大森がカウンターの小切手を示した。 「これなら料亭やレストランを買える。場所を選ばなけりゃあ一軒や二軒じゃねえ・・・」  額面を確認した勇造はにやついた顔を隠せなくなった。 「待てよ?これじゃあ、額が以前のまんまじゃねえか!どういうこった?」 「ええ、それが・・・」  大森は店の奥の格子戸を見て、何があったか話しはじめた。 「そりゃあ、おめえ。金を出さねえための、泣き落としだろうよ?」 「それで、今、幸さんが弟さんに電話で確かめています」  大森が言う間もなく、奥の格子戸が開いた。  勇造は幸一に確認した。 「話は大森さんから聞いたぜ。それで、どうなんだ?」 「事実です。医院は岡田醸造の医療法人で厚生施設も兼ねてます。兄が理事長、弟二人は理事になってる・・・」  幸一は唇を噛みしめた。 「どうする?遺産の回収を言っているんじゃねえぜ・・・」  勇造は幸一の二人の弟を考えていた。  どんな医療ミスかわからぬが、示談や裁判に関わらず、被害補償と責任追求は幸一の二人の弟まで及ぶ。 「あの念書を使って兄貴を会社から追い出せば、責任のお鉢が弟たちにまわって来ちまう。  示談にしろ裁判にしろ、被害補償をしなくちゃ会社の信用問題だ。  兄貴の事じゃねえよ。幸さんの弟たちの事を言ってんだ。  念書は使っちゃならねえ!兄貴の責任逃れの後押ししちゃならねえぜ!」  そうは言っても、どうすりゃあいいんだ・・・。  待てよ?幸さんは、はなから念書を公にしねえ気だった。岡田に医療ミスの責任を取らせたら、遺産の残りをすぐには受け取れねえ事になる。受け取るためには・・・。  まさか、まさか、そんな? 「幸さん。まさか、長野へ乗り込む、なんて考えちゃいねえよな?」 「そうだとしたら、反対しますか?」 「そりゃあ、おめえ、反対するに決まってるが・・・」  勇造は何も言えなくなった。 「そんな訳で、先生は長野に移りました。  当初は、地元の総合病院でインターンをしていました。そして、遺産を受け取る度に、全て小沼興業に注ぎ込んで、遺産の残りを大森の父に計算させていました・・・。  先生はいずれこちらに戻るつもりでした・・・。  あの頃、あんまり訪ねてこないんで、ずいぶん寂しかったのを覚えています・・・・」 「先ほど、先生が利用されたと言いましたが、それはどうしてですか?」 「先生は当初、十年くらいでこちらに戻るはずでした。それが岡田発酵の設立前から医院を押しつけられて、問題を抱えた患者まで診ることになって、戻るに戻れなくなったと大森の父から聞きました」 「医療ミスについて、先生から何か聞きませんでしたか?」 「先生は、医療ミスと言わず、難病とか後遺症とか話してましたけど、はっきりした事はわかりません。いつだったか、 『苦しまずに死ねたら患者も楽だろうな』  なんて冗談を聞いた事がありました。  ふだん先生は冗談を言わないので妙に思い、その時の事をはっきり覚えています」 「いつでした?その時、心臓の薬を飲んでいましたか?」 「その話が出てから心臓の話になって、先生は初めて私の前で薬を飲みました。 『最近、過労気味で、心臓が弱っているんだ』  と言いながら・・・」 「岡田発酵を設立してから、新薬の研究を始めたと聞きませんでしたか?」 「いえ、何も聞いていません。  先生が私たちを訪ねてきたのは、多い時で、年に数回でした。  先生が話すのは過去の事ばかりでした。私たちと会っていた頃、先生が長野で何をしているのか、まったく話しませんでした。  長野に移った理由も、ずっと後になって、先生と父や伯父から断片的に知りました。  大森の養女になった時も、私は何も知らなくて、実の親に捨てられたと思ったくらいでした。でも・・・」  美奈は陽射しを遮っているブラインドを見つめた。そして、天上を見上げて瞬きして、ハンドバッグからハンカチをとり出した。 「今になれば、私を危険な目に合わせたくなかったとはっきりわかります・・・。  あの子たちみたいに、脅される事もないし・・・」 「あの子たちと言うのは、先生の子供たちですか?」 「ええ、そうです。岡田は暇さえあれば医院に来て子供たちに先生の悪口を言い、恩返ししろと脅していたようです。長男の幸一郎が大学に入った時、私たちを訪ねてきて言いました。幸一郎は医師になりたくない様子でした」 「他に何かありますか?」 「これで全て話しました・・・。参考になりますか?」  瞬きしながら、美奈はじっと相田を見つめている。 「もちろんです。確認しますね。  先生は遺産を全て受け取った。  先生が預かっていた株券は全て岡田の下に戻っている。そうですね?」 「そうです」 「先生はもっと早く遺産を受け取れたはずのに、岡田醸造の医療法人の医院が医療ミスをして、患者に賠償金を支支払ったため、先生が遺産を受け取る時期が引き延ばされた」 「そうです」 「先生は医療ミスをした医院を引き継いだ。そして、難病や後遺症を抱えた患者まで診る事になり、都内へ戻るに戻れなくなった」 「そうです」 「今、長野にいるのは長男だけでしたね?」 「ええ、幸一郎だけのはずです」 「医院は?」 「昼は通いの医師が四人と看護師が二十人。夜は医師一名と看護師五名が当直です」 「お聞きした事を、長野県警に伝えていいですか?」 「ええ、話してください」  相田は時計を見た。まだ理佐と松浪は長野県警に着いていない。  相田はソファーを立つと壁際の電話で本間に連絡を取った。美奈の話を説明し、 「大森美奈さんの録音を至急パソコンでそちらへ伝送するから、錠剤の分析結果と二人が持ってゆくレコーダの録音、これから伝送する録音の全てを検討して、医院を捜査した方がいい」  と言った。 「私もそう思っていたんだ。協力に感謝するよ。  至急、担当に、パソコンの専用アドレスを連絡させる」  本間本部長は電話を切った。 「医院に何かあるんですか?」 「ええ・・・。  その前に、もう一本電話させてください。今日は時間がありますか?」  ふりかえって美奈を見る相田は笑うようにそう言った。  相田は何かを気にしていると美奈は思った。 「ええ、あります。今日、水曜日は店の定休日ですし、母には、相田さんに会うと言って出てきましたから・・・。  それが何か?」 「ちょっと待ってください。連絡してみないと・・・」  相田はふたたび受話器を取った。副編集長に仕事の指示をして、 「例の件で長野県警がパソコンの専用アドレスを知らせてくるから、ここにあるレコーダの録音を急いで伝送してくれ・・・。そうだ。誰か取りによこしてくれ。代りのレコーダも頼むよ・・・。カードを入れ換えろって?そっちでやってくれ・・・。  それと帝都大の山崎教授に会いたいんだ。至急、番号を調べてくれないか・・・。  はいわかった。ありがとう。昼には教授に会いに行く。あとを頼むよ」  と電話を切った。  相田は副編集長から聞いた番号に電話をかけ直した、薬物についてしばらく話し込み、 「それでは、昼食をご一緒させてもらいますよ」  と笑いながら電話を切った。 「学生時代からのつき合いでね」 「失礼します」  相田が話しはじめると女性が応接室に現れた。 「ああ、みっちゃん。ご苦労さん。これを副編集長に渡してくれ」 「わかりました」  女性は美奈に挨拶してレコーダーを受け取り、代りのレコーダーを相田に渡して部屋を出て行った。 「長野県警の本間も大学で同期でね。こんな時しか顔を合わせないが、何かと頼りになる連中なんですよ。  昼飯、ご一緒してくれますね?」  相田はソファーに戻ってタバコに火をつけた。 「ええ、喜んで。  それで、真相はおわかりになったのですか?」 「まだ推理の段階ですが・・・」  そう言いながら、相田はゆっくりタバコを吸った。  相田は事件を全て把握しているように思えた。 「理佐と松浪が長野県警に伝えるが、全てを報道できないかもしれないから、そのつもりで・・・」  相田は念を押して話しはじめた。
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