十八 推理三

1/1
前へ
/23ページ
次へ

十八 推理三

 九月十七日、水曜日、午前、日報新聞社。 「岡田医師が・・・、先生と言ったほうがいいね。康子夫人は奥さんと・・・」 「はい。その方が・・・」 「わかった。そう呼ぼう。  知ってるだろうが、まず岡田発酵がグループ企業化した年を確認しよう」 「はい」 「昭和五十二年。  長野に移った先生は前任の医師から医院を引き継いで、岡田醸造の企業医になった。  その年。  岡田は岡田醸造の酒造部門を拡張して岡田酒造を設立した。  さらに醸造に関する発酵技術の研究を名目に岡田発酵を設立し、岡田が直に経営した。  岡田発酵はグループ企業の中心になり、先生が岡田発酵グループの企業医になった。  創業と同時に、岡田発酵はバクテリアと酵素研究を開始して薬品を手がけ急成長した。  昭和五十三年。  岡田発酵は当時の厚生省から数々の医薬品を認可された。 その後。  岡田発酵は数々の子会社を設立して現在の企業グループになった・・・。  ところで、新薬の認可を受けるには臨床データーが欠かせないのは知ってるね?」 「ええ、話には聞いてます」 「夕べ話した事と重複するからそのつもりで聞いて欲しい」 「はい」 「厚生省から医薬品の認可を得るには臨床試験が欠かせない。  だが、岡田発酵の設立当初から公の医療機関に、岡田発酵が新薬の臨床試験を行った記録が無い。日報新聞の情報網は巨大で緻密だが、当時から存在するどの医療機関を調べても、岡田発酵の臨床試験を行った記録は見つからなかった。  理佐と松浪の取材でわかったんだが、医院の元患者から、 『新薬を使うので、何かあったら示談にするという確約書を書かされた』  と証言を得てる。長野県警の聞き込みと事情聴取でも、医院で臨床試験が行われていたと証言を得てるから、医院が臨床試験の現場だったのは、まず間違いないだろう。  長年、先生が新薬の臨床試験を担当していたと考えられる。  そして、最近は特別な薬を臨床試験していた可能性が強い。  昨夜も皆さんに話したが、佐々木刑事が先生の死因に疑問を持っていないんで問いただしたら、長野県警は奥さんの死に疑問を抱いていた。  司法解剖の結果、奥さんの肺に水が溜まっていなかった。死因を薬物による心臓停止と考えて血液を分析した結果、薬物を検出した。だが、まだその薬物が如何なる物か判明していない・・・。  体内に痕跡を残さず、しかも苦しまずに死亡させる。そのような薬物の臨床データーや試験データーを取れるとしたら、薬品に詳しい者でないと不可能だ。  先生は、その特別な薬の必要性を美奈さんにそれとなく、 『苦しまずに死ねたらいい』  と話したんだろうね。  欽司さんが車中で聞いた、 『おれはころされる。きをつけろ』  との先生の言葉と、昨夜受け取った錠剤から判断して、先生が必要としていた薬、つまり安楽死の薬はすでに実用化されていたんだろうね・・・・」  タバコを灰皿に揉み消すと、相田は目を伏せたまま煙を吐きだした。  美奈は言葉に詰まった。  いつも朗らかな幸一父さんがそんな薬を試験して心臓を病んでいたなんて・・・。  美奈はそれ以上何も考えられなくなった。  相田は美奈を気遣って言った。 「長野県警があの錠剤が分析すれば、先生が必要とした薬が安楽死の薬とわかるはずだ。  先生の心臓は悪くなかったと思う。人道的な思いから、薬を開発していたんだと思う。  小料理小夜の座敷に転がっていた三錠の錠剤は、おそらく、八月二十九日の夜、先生と奥さんが席を外した隙に、岡田が先生の吸い物に混入させた安楽死の薬の残りだ。  その訳を説明しよう・・・」  相田は一息ついて説明した。 「これまで先生は、医院の患者から確約書を取ってまで、新薬の臨床試験を行ってきた。  岡田はそうした先生を見て、先生が小沼一族と手を切って岡田発酵のためだけに働いていると思っていた。  岡田をそう思わせるもう一つの事実は、安楽死の薬を完成させるため、先生がみずから試験をくりかえしていたからだ。  八月二十九日。岡田は、先生と奥さんが連れだって東京へ出かけたと聞いた。  取材でわかったんだが、八月二十九日の午後、医院を訪ねた岡田に、付近の人が、 『先生と奥さんは東京へ出かけた』  と話している。  岡田は、縁が切れたはずの美奈さんや春江たちに、先生たちが会いに行ったと判断して不愉快になった。先生を一刻も早く連れ帰るにはどうしたらいいかを考えた結果、先生がみずからくりかえした試験を再現しようと思いついて、先生が研究していた安楽死の薬を持って小料理小夜を訪れた。  目的は、先生を小沼一族から引き離すだけの単純な理由だった。  店に着いた岡田は、先生と奥さんが、小沼興業の一人娘・綾さんと欽司さんの結婚式に出ていたのを知って逆上した。一刻も早く先生に安楽死の薬を飲ませて心臓の具合を悪くし、長野に連れ帰ろうとした・・・」  皆が慌てて言った。 「安楽死の薬なら、飲めば死ぬわ」  相田は一息ついて説明した。 「ここで、先生が研究していた薬について説明しておこう。  難病や医療ミスで苦しむ患者を診続けた先生は、患者の安楽死を考えて特殊な薬を考案した。数錠服用すると、身体が麻痺して眠くなり、不随意筋の活動が鈍って心不全と同じ症状が現れる。しかし苦しまず、体温が下がって確実に死に至る。安楽死の薬だ。  先生は、安楽死の薬で低下した心臓機能が、狭心症と同じようにニトログリセリンで回復するのを知った。何度も自分で試験的に服用して薬の効果を確かめた。  試験的に服用している間は、 『過労で心臓が弱っている』  と言ってニトログリセリンの錠剤を見せて、心臓が悪いと装った。そうすれば、薬の試験で先生が事故死しても、関係者に迷惑がかからないはずだった。開発した安楽死の薬を服用すると、体内で数時間後に分解して体内成分と同じ物質に変り、薬物による死亡とは判断されないからだ。  あの日、岡田はそうした薬を持っていた。座敷に同席した奥さんに、タバコが欲しいと言って席を外させ、さらに、酒と肴の追加のために、先生を調理場の春江さんと美奈さんのもとへ行かせた。  二人が調理場へ行けば久しぶりの親子と姉妹、話が長くなるのは明らかだった。  岡田はその隙に、吸い物に安楽死の薬を入れた。  死なないまでも心臓機能を低下させて、先生を長野に連れて帰るには一錠で効果があるはずだったが、そこに医師ではない岡田の誤算があった。岡田は先生から薬の効果を聞いていなかったのかもしれない。  完璧に死を招くには四錠以上必要だった。それは体内にアルコールが入っていない時の話だ。造り酒屋の岡田醸造で育った先生は大酒飲みだった。  この日、先生は披露宴の席でかなり酒を飲み、ふたたび小料理小夜で酒を飲んだ。そして、岡田が薬を混入させた吸い物を飲むと、薬はアルコールとともに血液中に溶け込み、心臓機能を急激に低下させて、先生は昏睡していった」 「待ってください。どうして一錠なんですか?」 「先生が倒れた時、岡田のどこからか三錠の錠剤が座敷の隅に転げた。殺す気なら全てを先生に飲ませたはずだ。だから、殺す気はなかったと言う意味での一錠だよ。  金に汚くて人望が無く他人を信用しない岡田は、企業内で弟たちからも孤立していた。先生から過去の行いを非難されても、企業経営や様々な事を語る相手は先生だけだった。怨まれても嫌われても、頼れるのは先生だけだった。  先生が長野に移った時点で、岡田はみずからに、先生と小沼一族の関係が切れたと思い込ませたんだろうね。そうでなければ、孤独な岡田はやりきれなかったのだろう」  相田はタバコを取り出して咥えたが、火をつけずに灰皿に置いた。 「安楽死の薬を飲まされたと知った先生は、試験を行っていた時の口癖で、 『発作だ』  と叫んで岡田に掴みかかった。  岡田は先生の状態がそれほど酷くないと思い込み、 『発作などと、ごまかすんじゃない』  と叫んで先生の腕を払いのけた。  座卓の料理が座敷に散らばり、同時に、岡田のどこからか、ニトログリセリンの錠剤に似た、球に近い形の安楽死の錠剤が飛び出した。  先生の奥さんはその錠剤を先生のニトログリセリンの錠剤と勘違いした。泣き叫びながら錠剤を探した。  そばにいた岡田は、死ぬほどの数は飲ませていないから、身体が冷えなければ心配ないと考え、先生を長野へ連れ帰ることにした。  車に先生を乗せた岡田は、先生の体温が急激に下がったのに気づいた。もしかしたら、このまま死ぬかもしれないと思い、先生と奥さんの替え玉を考えた。  今は染め戻して白髪にしているが、結婚式のため、春江さんは白髪を黒く染めていた。大森さんは先生と同じくらいの背格好だ。先生夫婦は礼服を宅配便で小料理小夜に送り、普段着で小料理小夜に来ていたから、普段着の春江さんと大森さんが長野駅で新幹線を降りても、夜の遠目には先生たちと判断つけにくい。  岡田はそこまで見越していた。奥さんを説得し、春江さんと大森さんに先生夫婦の切符を渡した。  長野駅の駅員が、あの日の夜、あさま五五三号から降りてきた先生夫婦が改札口を通ったと佐々木刑事に証言している・・・」  相田は灰皿のタバコを咥えて火をつけた。 「岡田は車の後部シートに先生を寝かせ、奥さんを付き添わせて、欽司さんに 『先生の身体を冷やすな。四時間以上かけて長野へ行け』  と指示した。  理由は、薬を服用して四時間すれば、薬の成分が体内で確実に分解するからだ。  岡田が思ったとおり、先生は後部シートで仰向けのまま眠るように死に、死斑は背中に残った。  医師でなくても奥さんは医師の妻だ。先生が車の中で亡くなった時、奥さんは岡田が何を考えているのか気づいたと思う。  あの日、岡田は日本橋の商社で穀物を買い付けて、アメ横を見て歩き、そのまま長野へ帰ったと日本橋の商社マンが佐々木刑事の事情聴取に答えているが、佐々木刑事は岡田が商社マンを買収したとみている。  岡田は自分のアリバイ工作をして先生に薬を飲ませた。自分の行う事が殺人になるのを充分に予想していたんだと思う。  タバコ、煙いですか?」  目を細めている美奈に、相田は尋ねた。 「いいえ・・・。  康子母さんを殺害した理由は?」 「先生を長野へ運ぶ途中、奥さんは先生から、岡田に安楽死の薬を飲まされ事を知らされたんだと思う。それまで奥さんは、そんな薬が存在することも、先生みずから薬の試験をしている事も知らなかったと思うよ。  先生が亡くなり、奥さんは岡田を問い詰める決心をした。しばらく岡田を泳がせるつもりで、春江さん夫婦と欽司さんを追い返し、岡田の言う事を素直に聞く素振りをした。  先生の死因は行政解剖の結果、急性心不全と診断された。  だが、岡田は安心できず、先生自身の試験記録がどこかにあるはずだと思い込んだ。毎晩、医院に押しかけて奥さんを脅し、先生の記録を探した。  結局見つからず、逆に奥さんから、岡田が先生に安楽死の薬を飲ませて殺したと脅されだした。  佐々木刑事が岡田医院の付近の住人から、 『先生が亡くなって奥さんが行方不明になるまで、毎晩のように医院から、奥さんを怒鳴る岡田の声が聞えた』  と聞き込んでる・・・」  相田は吸いかけのタバコを灰皿に置いた。  煙がゆっくりたなびいて美奈の顔へ流れている。 「煙いですね・・・」  相田はタバコを灰皿に揉み消した。 「先生の初七日の夜、岡田は口封じのために奥さんにあの薬を飲ませ、四時間近くどこかに隠した。薬が効いて体温が急激に下がり、確実に死亡する場所は岡田医院から近い犀川だった。  奥さんが行方不明になったと知った子供たちは、警察に連絡しようとした。  だが、岡田は何食わぬ顔で子供たちを止めた。 『夜が明けたら、ただちに岡田発酵の社員を集めて、母さんを探す』  と岡田が話したのを、長男が佐々木刑事に証言している。  身内の人々を大切に思えば、すぐさま奥さんを探す。  しかし、岡田は、薬を飲ませた奥さんが四時間以内に発見されてはならないと考えた。  犯行が未遂に終れば、薬物による殺人が発覚する。その事を恐れ、岡田は長男に警察へ連絡させなかった。そして、夜明け直前に犀川と千曲川を岡田発酵の社員に捜索させ、遺体を発見した。  警察に連絡せずに夜明けまで待ち、他所を捜索しないで、いきなり川を捜索したのは、誰が考えても不可解だ。岡田が、自分が犯人だと言っているのと同じだよ」 「自殺と思われていたのは?」 「先生の初七日の法要の後だったから、犀川と千曲川の合流点で見つかった奥さんは喪服を着ていた。自殺のために来ていたんじゃないよ。  おそらく岡田が喪服を示して、自殺だと言ったんだろうな。  先生を亡くして奥さんがノイローゼ気味だなんて話は、理佐も松浪も取材で一度も聞かなかった。それに、あの春江さんの妹であなたのお母さんだ。ちょっとやそっとで音をあげる性格じゃないでしょう」  美奈は相田の言葉に小さく微笑んだ。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

219人が本棚に入れています
本棚に追加