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二十 現行犯逮捕
九月十七日、水曜日、午前。
言問通りの北側、浅草三丁目のバス停近くに相田の乗ったタクシーが停まった。
言問通りはかなり渋滞している。
大手町でタクシーを拾ったのが十一時三十分過ぎだ。東京着十一時三十一分のあさまを降りた岡田より早く浅草三丁目に着いたはずだ。とは言え、岡田が相田より早く着いている可能性もある。
バス停の二十メートルほど東に、狭い車道が言問通りを南北に横切る信号のない交差点がある。言問通りからこの交差点を北へ入り、同じ幅の車道が交差する信号のない交差点の二つ目の北西の角に、東西に走る狭い車道に面して南表の小料理小夜がある。
急がねばならない・・・。
相田は言問通りの歩道を、その信号のない交差点向って小走りに歩きはじめた。
交差点の先にタクシーが停まった。
相田は思わず立ち止まった。
タクシーのドアが開き、でっぷりした男が歩道に立った。男はガニ股な足どりで相田の方へ歩いてくる。男の背は低く、丸く肥満した顔に幅の狭い頭が乗り、白髪の混じった髪を短く刈り込んでいる。大きな口の唇は部厚く不健康な色合いで、大森春江が語った岡田幸雄そのものだった。
こんな事なら、理佐に岡田の顔写真を転送させるんだった・・・。
そう思いながら、相田は上着のポケットに手を入れた。仕事柄、デジタルカメラとレコーダーを常に持ち歩いている。
相田はカメラをとり出した。
この距離ではズームアップしなければ目鼻立ちはわからない。
カメラをズームに切り換えると、相田は歩道の風景を撮るふりして、岡田とおぼしき男にフォーカスを合せて連写のシャッターを切った。そして、被写体を変えてふたたびシャッターを切ったが、相田はカメラのモニターを見るふりして男の行方を追った。
男が小走りになった。相田が目指す信号のない交差点で北に折れると、歩道から見えなくなった。
相田は信号のない交差点へ走った。
交差点で、北へ延びる狭い車道を見たが、男の姿はなかった。
相田はその車道を北へ走った。小料理小夜は二つ目の交差点の北西の角にある。
二つ目の交差点にも男はいなかった。
交差した東西へ延びる狭い車道を捜すと、交差点の東の車道に男の後ろ姿が見えた。
人違いだったか?
そう思いながら、相田は交差点を西へ折れて、小料理小夜の正面に立った。
小料理小夜の右手は、たった今、相田が言問通りを北へ折れて走ってきた狭い車道である。この車道に交差した東西に延びる狭い車道に面した南表に、小料理小夜の入口がある。
小料理小夜の左横に北へ伸びる路地があり、この路地から店の裏口へ続く通路に入ってゆく。この路地を見張れば、裏口からの侵入者を監視できる。
小料理小夜を見たまま、相田は周囲に注意を払った。
路地に人影はない。
相田は、小料理小夜の向かい側の車道をゆっくり西へ歩いた。ビルと商店の間に人一人が入れるわずかな空間を見つけ、何食わぬ顔でそこへ歩いていった。そこは小料理小夜を左前方から監視する好都合な位置にあった。
空間には警官がいた。何をしに来た?と相田に鋭い眼差しを向けている。
「日報新聞の相田です。長野県警の要請で・・・」
と言って相田が小声で身分を明かすと、警官は、
「相田さんに協力してもらうよう、指示されています」
と言った。
「それらしい男がいたんだが、交差点を東へ歩いていった」
相田が岡田幸雄の特徴を説明しようとした時、先ほどの男が東から車道を歩いてきた。
「あの男だ。特徴はそのままなんだが・・・」
男は小料理小夜の前で止まり、店を眺めている。
「待ちましょう。・・・大森春江本人に気づかれぬよう、大森春江の警護を指示されただけで、岡田幸雄を捕まえる理由がない」
男は小料理小夜の入口の引き戸に手を掛けて何度か引いた。開かないとわかると溜息をついて引き戸から離れた。通りの中ほどに立って、ふたたび店を眺めている。それから思い出したように店の左側の路地に入っていった。
店の二階でカーテンが揺れた。
なんだ?
相田は窓を見た。カーテンの隙間から、春江がこちらを見ている。
相田は、でっぷりした男が路地を入って、店の裏へまわったと身振り手振りで示した。
春江は何度も頷いて、窓辺から見えなくなった。
「大丈夫ですかね?」
「娘さんが、戸締りして誰も入れないよう連絡してるから、心配ないだろう」
「えっ?今のは、ドアを開けろ、と指示したんじゃないですか?囮として?」
「しまった!勘違いだ!」
「行きましょう!」
相田が車道へ飛び出した。その後に警官が続いた。
路地に駆け込む二人を見て、のんびり車道を歩いていた数人の男が路地に殺到した。
相田は小料理小夜と隣の商店の壁に肩をぶつけながら、路地を走った。相田のすぐ後を、警官と男たちが足音を忍ばせてついて来る。
裏口に男はいなかった。ドアは閉まっている。
相田はドアノブに手を掛けて静かに回した。鍵はかかっていない。
相田は警官を見た。
警官は、開けろと目配せしている。
店の中で食器の割れる音がした。たてつづけに物がぶつかる音が聞え、呻き声が聞こえる。
「急げっ!」
相田と警官はドアを開け、事務所を駆け抜け、調理場へ走った。
調理場の壁を背に、春江が和服の襟を締められていた。足は白い錠剤が散らばる床から浮いて空を駆け、手は岡田の太い腕を掻きむしっている。
「岡田!手を離せ!殺人未遂の現行犯で逮捕する!」
警官の警告に、岡田は春江の襟を締め手を緩めない。
警官が警棒で岡田の腕を殴った。
相田は岡田の腎臓に狙いを定め、背後から岡田を思い切り殴った。すかさず警官が岡田の首筋を殴ったが、肥満した岡田の身体は二人の攻撃にびくともしない。
相田の視界に調理台の大皿が映った。咄嗟に大皿を掴んだ相田は、岡田の頭めがけて大皿を振り下ろした。
ガシャッと大きな音がして皿が砕け散った。
春江の襟を掴んでいた岡田の腕がゆっくり下がった。凄まじい形相で岡田がふりむいたと同時に、岡田の手が相田の上着の襟に伸びて、ぐいぐい締め上げた。その瞬間、ガクッと岡田の膝が折れて、肥満した岡田の身体が床に崩れ落ちた。相田の首は開放された。
春江を見ると、春江は肩で大きく息をつき、青ざめた顔のまま、相田に笑顔を見せた。首筋に赤色の痣が浮び、和服の襟が皺だらけになっている。
「なぜ開けたんです?こうなるのは、わかっていたでしょう?」
相田は喉の奥から搾り出すような声で言った。吐く息が喉でヒュウヒュウ鳴った。
「だから開けたのよ。相田さんの顔が見えたから安心して開けたのよ。
そうでなけりゃ、現行犯逮捕はできないでしょうに・・・。
カメラは?スクープでしょう?」
春江は襟を直しながら余裕を見せた。
「わかりましたよ・・・」
春江に笑いかけながら、相田は上着のポケットからカメラをとり出して動画撮影した。
警官が床に倒れている岡田に手錠をかけた。周囲には白い錠剤とかけた皿が散乱している。刑事が無線で救急車とパトカーを手配する間、相田はその場を動画撮影し続けた。
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