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二十一 確約
九月十七日、水曜日、午後、長野県警本部
正午過ぎ。岡田幸雄逮捕と大森春江の無事が理佐と松浪に伝えられ二人は家宅捜査の取材を許された。
相田編集長は春江さんを守った!
理佐と松浪はホッと胸を撫でおろす思いだった。
捜査員より遅れて、理佐と松浪は佐々木刑事が運転する車で岡田医院に向った。
「相田さんが連絡してきた大森美奈の説明と、岡田があの錠剤を大森春江に飲ませようとした事で、松波さんたちの推理が裏づけられましたな。
ですが、まだあの錠剤の分析結果が出てませんから、今日の捜査の名目は岡田幸雄の殺人容疑の捜査ですので、その辺は・・・。
まだ決定したわけではありませんが、もしかすると、岡田の殺人容疑だけになるかもしれません。いずれ、本部長から話があるでしょうから、殺人容疑だけに留めておいてください・・・。
会見は、七階の会議室で三時過ぎになるでしょう」
ハンドルを握りながら佐々木刑事がそう呟いた。
取材を終えた二人は午後二時過ぎに県警本部に戻り、七階の会議室で本間本部長の記者会見を待った。会見時刻の午後三時過ぎまで時間がある。
「記事は岡田幸雄逮捕と、医院の家宅捜査だけでいいわね?」
理佐は松浪の耳元で囁き、松浪の目を見て目配せした。
事件を知って会議室には、他紙の記者やTVの取材者たちが駆けつけている。
「そうだね。本社へ送って指示を待とう」
ニッポウTVのクルーを見て松浪は声を潜めた。ニッポウTVは日報新聞の系列TV局である。この場では本間本部長との確約について話せない。
理佐が記事をまとめる間、松浪は取材した動画を携帯電話で日報新聞本社と長野支局へ伝送した。指示を得るため相田の携帯に連絡したが、繋がらない。松浪は日報新聞本社社会部へ連絡した。
「みっちゃん。三時から長野県警の記者会見が始る。ニッポウTVも来てる・・・。
もうすぐ理佐が逮捕と家宅捜査の記事を送ります。記事と動画の扱いを編集長と副編集長に聞いてください」
松浪の連絡に女性編集者が答える。
「編集長から、岡田幸雄逮捕の動画が伝送されました。
『記事は書いたままで送ってください。こちらで手を加える。
長野県警との確約があるから、長野県警と連絡を取って、どこまで報道するか判断する』 と言ってました。
編集長は現場から携帯で、今、取材した動画と記事の扱いをどうするか、我社とニッポウTVの上層部に掛け合ってます。
長野県警との確約で記事にも制限がかかるが、仕方ないそうです」
「わかりました。副編集長は?どこへ行ったんですか?」
「編集長から連絡があって、例の大森美奈さんを送って浅草へ行きました。
編集長は、
『警察の事情聴取の後、TVと新聞の取材がうるさいだろうから、美奈さんと春江さんを市川の自宅へ連れてゆく』
と言ってました」
「了解しました。・・・理佐。記事はそのまま送ろう」
携帯を切りながら松浪はそう言った。
「わかったわ。やはりね・・・」
理佐は記事を書き続けた。
午後三時。本間本部長と佐々木刑事が会見席に着いた。
「本日十二時三十八分、岡田発酵グループ会長の岡田幸雄宅と岡田発酵本社、岡田医院を家宅捜査しました。
捜査理由は、本日十二時十三分、警視庁が東京都台東区浅草三丁目において、岡田発酵グループ会長の岡田幸雄を、殺人未遂の現行犯で逮捕したためです。
被害者は大森春江。逮捕現場は東京都台東区浅草三丁目です」
岡田幸雄逮捕を聞いて、会場がざわめいている。
「警視庁の被疑者逮捕後、ただちに長野県警が被疑者に関係する施設を家宅捜査したのはなぜですか?本来なら捜査権は警視庁にあると思います。
長野県警に捜査権があるのは本件の捜査権が最初から長野県警にあったと受け取っていいですね?」
「本件は、長野県警が警視庁に依頼した合同捜査です」
「では、長野県警が警視庁に被疑者逮捕を依頼したのですか?」
「結果としては、そのようになりました」
「犯行の動機は?」
「警視庁が取り調べ中ですので、詳しい事は被疑者が長野県警に移送された後に、改めて記者会見します。取り調べは長野中央署で行います」
本間本部長は質問を躱した。
「県警の要請で、警視庁が被疑者を殺人未遂の現行犯で逮捕したということは、県警が事前に被疑者を捜査していたんですね?どのような理由からですか?」
質問したTVリポーターは、今回の殺人未遂事件の事前捜査と、その理由を探り出そうとしていた。
「その件につきましても、被疑者が長野県警に移送された後に改めて記者会見します。
今回、市民の絶大なる協力があり、事件を未遂に終らせる事ができました。
協力してくださった市民に、深く感謝いたします」
ふたたび会場がざわめいている。
「市民の名を公表してください」
「プライバシーにかかわる事ですからそれはできません」
他の記者が訊いた。
「以前から捜査していた目的は何ですか?」
「先ほど述べましたように、その件につきまして改めて記者会見します。
本日は以上です」
本間本部長と佐々木刑事は立ちあがって一礼し、会見場を出て行った。
「なんだ。これだけかよ・・・・」
「おい、急げ!岡田幸雄の取材だ!」
「岡田発酵と岡田幸雄の自宅へ行け!近所も取材しろ!」
記者たちは慌てて席を立った。
理佐は書き上げた記事と記者会見の録音を伝送しながら松浪に言った。
「やっぱり家宅捜査の理由は、岡田が現行犯で逮捕された事だけね」
「うん・・・」
松浪は記者会見の動画を伝送した後、社会部に連絡した。
「編集長から何か連絡は?」
「まだ、連絡は入っていません」
「ありがとう・・・。また連絡します・・・」
携帯電話を切りながら、いったい、どこまで報道できるんだろうと松浪は思った。
「健ちゃん。どうしたの?」
「外へ出たら話すよ・・・」
松浪の携帯電話が鳴った。発信者を確認すると本間本部長である。
「本間です。松浪さん。相田と話しているつもりで、私に話を会わせて聞いてください」
「わかりました。編集長」
「相田さんから?」
理佐は松浪に訊いた。
「うん・・・」
携帯電話を耳にあてたまま松浪が答えた。
「すまんが、他の記者たちに気づかれないように、九階の私の部屋に来てくれないか」
「わかりました。編集長。まだ片付かないので、それがすんだら、そうします」
「よろしく頼む」
「はい・・・」
松浪は携帯電話を切って理佐に訊いた。
「伝送は終った?」
「ええ」
「これですんだね・・・。理佐は、県庁は初めてだったよね。他の階を見てみようか」
「でも、まだ・・・」
「いいんだ。確約があるから、相田さんも承知してるんだ・・・」
松浪は理佐に上の階を目配せした。
「えっ」
理佐は松浪の意図に気づいて話を合せた。
「編集長が承知なら、わかったわ・・・」
他の記者やTVの取材者たちが去るのを待って二人は会場を出た。
九階の本部長室へ入ると本間本部長が、
「座ってください。私もそちらへ移ります。
事件について相田にメールしてるんですが、相田の携帯につながらないんです」
と言って二人にソファーを勧めた。
パソコンのディスプレイに向う本部長の横に、佐々木刑事が立っている。
「佐々木から聞いていると思いますが、今回の事件は岡田の大森春江殺人未遂容疑と、岡田夫婦殺害容疑になるではしょう」
そう言いながら本部長は机から立ち上がった。佐々木とともにソファーに座り、あの錠剤が入った透明なケースをテーブルに置いて説明した。
「この錠剤と夫人の体内に残っていた薬物が一致しました。特殊な筋弛緩剤です」
やはり松浪の推理したとおりである。
「問題は、この特殊な錠剤をどう扱うかです」
本部長は何を考えているのかと理佐は思った。
「この錠剤を公にすれば、誰が何の目的で作り、どのようにして完成させたか、追求されます」
「なぜです?」
と松浪が訊いた。
「相田が佐々木に話したように、この錠剤を開発した事と、錠剤の存在が社会問題になるからです」
「と言うと、公にしないのですか?」
松浪は本部長から目をそらさない。
佐々木が真顔で言った。
「松浪さん。そうではないんです。公にしようにも、公にできないんですよ」
「家宅捜査で物的証拠を見つけられなかったんですか?」
理佐も疑問に思った。
「そう言う事になります」
本間本部長は困惑した表情で説明した。
「今のところ、錠剤に関する物的証拠は何も見つかっていません。岡田発酵の研究員たちは、岡田医師が独りでこの錠剤を開発したと証言してます。
この錠剤の開発目的は想像できますが、岡田医師が故人となった今、錠剤の製法と試験、そして本来の目的など、全てが不明なのです」
本間本部長に続き、佐々木が説明した。
「この錠剤に関して岡田医師は記録を何も残していません。全てを記憶していたようです。
今のところ、錠剤に関してわかる事は三つです、
岡田医師に飲ませたと思われるこの錠剤と、岡田が大森春江を殺害しようとして持っていった錠剤が存在する事。
夫人の体内に残っていた薬物が特殊な筋弛緩剤である事。
その成分がこの錠剤と一致した事です」
「岡田幸雄はこの錠剤の目的を、何も知らなかったと言うんですか?」
松浪は本間本部長を見た。
「いや、それは有り得ません」
本間本部長はそう答えた。
理佐は本間本部長に尋ねた。
「錠剤の効果を知っていたから持ち出したんでしょう?どこから見つけたんですか?」
錠剤について岡田幸雄が何も知らなかったなら、岡田の岡田夫妻殺害容疑が消える。
「岡田は岡田医師夫妻が東京へ行った後に、この錠剤を持ち出した。夫妻を追って東京へ行き、医師に錠剤を飲ませ、一週間後に夫人に飲ませた。そして、医師に錠剤を飲ませた日の事を我々に話されては困ると考え、大森春江に錠剤を飲ませて口封じようとした。
岡田の行動から判断して、岡田が岡田医師からこの錠剤の目的と効果を聞いていたのは明らかです。
大森春江に飲ませようとした錠剤は、おそらくこの錠剤と同じロットで製造された物でしよう。
これらの事と錠剤をどこから持ち出したかは、岡田を尋問すればわかります。
だが、今回、私が公にできるのは、岡田が特殊な錠剤を手に入れて、大森春江を殺害しようとした事実だけです。
野村さんも松浪さんも、そう思いませんか?」
「今、僕らが報道できるのも、そこまでだと?」
「そうです・・・」
本間本部長は相田編集長との間で交された確約のために、この錠剤を闇に葬る気なのだろうか?
理佐は不思議に思って尋ねた。
「この事件について、記事をどこまで書けば良いと考えてるんですか?」
「今回は岡田逮捕についてだけです。つまり、岡田夫妻の死亡に疑問を抱いた大森春江に殺害の手が伸びた事までです。
大森春江に飲ませようとした錠剤の種類と入手経路は、まだ判明していないと言って伏せます。
我々の捜査では、今のところ、他に、この錠剤による被害者は出ていません。
仮に岡田が、
『患者を安楽死させるため、岡田医師がこの錠剤を開発した』
と証言しても、それを裏付ける物的証拠はありません。
岡田医師の社会的貢献と名誉のために、岡田医師が錠剤を開発した事は伏せておいてください」
「この事に編集長の相田は、何と言ってましたか?」
松浪の問いに本間本部長が言った。。
「相田の携帯に電話してるんだが繋がらないので、こちらに連絡するよう、本社の相田の部下に伝言を頼みました。私からも相田にメールしたが、直に話さねばならない事だから、再度、相田に連絡するつもりです」
「次の記者会見で、岡田夫妻殺害の方法と動機をどう説明するんですか?」
理佐の質問に本間本部長が答えた。
「その前に見せたい物があります。
松波さんたちが取材したように、医院からこの念書が見つかりました」
佐々木が古びた大型の封筒をテーブルに置いた。中から複写した書類をとり出した。
「過去、岡田は役所の職員を買収して自身の戸籍を偽造しました。これはその事を証言した人たちの念書です。
戸籍の偽造はすでに時効ですが、お二人の取材からわかるように、岡田は偽造が発覚するのを極端に恐れていました。発覚すれば、岡田発酵グループ会長の岡田の信用にかかわるからです。
この事も充分に殺人の動機になります。
大森春江の説明から、岡田が岡田夫妻と小沼一族に怨恨の念を抱いていたのも事実です。
しかしながら、それらは岡田の自供がない限り、我々の推測に過ぎません。
同様に、この錠剤を開発した証拠がなければ、製造者の社会的責任は問えません。
三日ほどで岡田が警視庁からこちらに移送されます。岡田夫妻殺害に関する尋問はその後になるから、記者会見はおそらく二週間後くらいでしょう。
全てが岡田しだいです」
「わかりました。僕らは編集長の相田の指示に従います。
本間さん。この件に関して必ず相田と話してください」
松浪は本間本部長に念を押した。
「承知しました。相田を納得させられるのは私しかいないからね」
「お願いします」
理佐と松浪は本間本部長と佐々木刑事に挨拶して本部長室を出た。
理佐と松浪が長野県警本部から、県庁東の通りを隔てた南長野南県町の日報新聞長野支局に着くと、
「県警にいる君たち二人に連絡すれば、他の記者に聞かれる可能性があるので支局に連絡した。事件について本間から話を聞いた。私に全てを任せてくれ」
と相田から連絡が入っていた。相田に何か考えがあるらしい。
夕刻。
TVニュースが岡田幸雄の大森春江殺人未遂事件を十秒ほど報道した。各局とも動機は親族関係の感情の縺れだった。ニッポウTVだけが岡田幸雄逮捕時の映像を報道したが、現場に散乱した錠剤についてのコメントはなかった。
「ニッポウTVもうまくまとめたな。相田編集長も大変だったろうね」
岡田幸雄逮捕のニュース後も、松浪と支局長はそれぞれの席に座ったままTVニュースに見入っている。
「健ちゃん。あの錠剤のこと、ずっと気になってるんだけど、どうなると思う?」
「どうって?」
松浪はそう言いながらTVから目をそらさない。
「今後も、県警はあの錠剤を公にしないように思うんだけど・・・」
「記者の立場から言えば、真実を明らかにしたい・・・。だけど・・・」
「だけど?」
理佐が問い返すと支局長がTVを見ながら言った。
「真実を報道するのがジャーナリズムだなんて言うが、たとえ真実でも、明らかにしない方が社会のためになる場合もあるって事さ・・・」
「健ちゃんも、錠剤の事を報道しない方がいいの?」
理佐の問いに松浪がふりかえった。
「理佐は?」
「わからないから、健ちゃんに聞きたいのよ」
松浪はしばらく考えてから話しはじめた。
「相田編集長や本間本部長が、安楽死の薬を開発した事や、薬その物が社会問題になると話したのは、開発者の責任が問われる事だけじゃないと思うよ。
最近、末期患者の尊厳死について医療倫理が問われてるけど、現実は末期患者の意志とは無関係に、家族や医師の判断で延命治療が行われる場合が多いのは知ってるね」
「ええ、知ってるわ。それと逆に、家族の発言を勘違いして、医師が植物状態の患者を死亡させた事件があったわ」
「もし、医療倫理が確立されて、法的に末期患者の尊厳死が認められた場合、安楽死を選択できるのはあくまでも患者本人であり、全ての人が末期患者になる場合を想定して、将来的に尊厳死を望むか否か意志表示しなければならなくなる。
なぜなら、安楽死の薬が使われた時、患者は亡くなっている。その時、安楽死が末期患者の意志か否か証明するのは難しい。家族や医師による殺人の可能性があっても、死人に口無しだからね。
あの薬が報道されれば、事件を模倣する者が現れる可能性もある。尊厳死の医療倫理も法律も確立されていない現在、あのような薬剤は存在してはいけないんだろうね。
本部長が直に捜査を指揮した理由は、そんな所にあったと思う」
「わかったわ・・・」
理佐の思いは複雑だった。
その日の夕刊と翌日の朝刊で、新聞各誌は岡田幸雄逮捕を単なる殺人未遂事件として報じた。動機はTVニュースが語ったように、親族関係の感情の縺れだった。
日報新聞は岡田幸雄逮捕時の写真と、筋弛緩剤の錠剤を飲ませて大森春江を殺害しようとした事を報じたが、錠剤についてのコメントはなく、動機は他紙と同じように親族関係の感情の縺れだった。
新聞各紙とTV各局は、岡田幸雄の大森春江殺人未遂事件の背景に気づいていなかった。
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