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二十二 尋問
九月二十四、水曜日、午後、長野県警本部。
岡田幸雄の逮捕から一週間後。
長野中央署の取調室で佐々木刑事は岡田幸雄に訊いた。
「誰が錠剤を開発したんです?」
「幸一だ」
思ったとおりの答えが岡田幸雄から返ってきた。
「目的は何ですかな?」
「私が頼んで作らせた。私の筋肉弛緩剤だ」
佐々木の問いに岡田は表情を変えずに話した。
「と言いますと?」
「昔、私は柔道で頚椎の一部を骨折した事がある。当時は骨折したと気づかず、治療もせずにいたが、今になってその後遺症が出てきたんじゃ・・・。
第三頚椎の突起が折れて曲がったままつながっておるんだ。首の動き次第で頚椎が神経に異様な刺激を与える。その結果、腕と手が異様に緊張する事があるんだ・・・」
「それで、筋弛緩剤がどう関係するのですかな?」
佐々木は何も知らぬふりでそう訊いた。
岡田は馬鹿にしたように佐々木を見た。
「普通に腕と手に力を入れたつもりでも、異様に強い力で手を握ったり、思わぬ力で腕を動かしたりする事がある。だから、薬を飲んでその緊張を和らげるんだ」
「飲まないと、どうなるんですか?」
「強い筋肉疲労が残る。それと、自分では思ってもみない力が腕と手に入っているから、物が壊れる」
「その時は何錠を飲むのですか?」
「一錠だ」
「たくさん飲んだら危険性は?」
「当然ある」
ふたたび岡田は馬鹿にしたように佐々木を見た。
「話を元に戻しましょう。
岡田医師に薬を作らせたと言いましたが、岡田医師に、薬の製造をどのように頼みましたか?」
「腕と手の筋肉の緊張を弱める薬を作ってくれと話しただけだ」
「岡田発酵の研究員に頼む事もできたでしょう。なぜ、岡田医師に頼んだのですか?」
「会社の連中に私の弱みは見せられぬ・・・」
「岡田医師が薬を作ったと示す物がありますか?」
「ない。幸一は記録をしなかった。全てが幸一の頭の中だ」
「岡田医師に錠剤を飲ませたのは、なぜです?」
「幸一を小沼一族に渡せない・・・。一錠だけ飲ませて身体を弱らせ、長野に連れて帰るつもりだった」
「だが、医師は死にました。その事については?」
佐々木はあえて、殺したとは言わなかった。
「死ぬとは思わなかった・・・」
「八月二十九日、日本橋の商社マンが、アメ横を歩きたいと言うあなたに付き合った後、新幹線の発車時刻に間に合うように上野駅まで送ったと証言してます。なぜですか?」
一度目の聞き込みで、岡田は、八月二十九日は大豆の買い付けで都内の商社へ出かけ岡田医師が利用した同じ新幹線で帰ってきたと答えている。そして、日本橋の商社マンは、大豆の買い付けに来た岡田幸雄を、新幹線の発車時刻に間に合うよう、上野駅まで送ったと証言している。
「もしもの場合を考えてだ・・・」
「医師が死亡するかもしれない、と考えてですか?」
死を想定して錠剤を飲ませたのなら、殺人が成立すると佐々木は思った。
「一錠で死ぬはずがないんだ・・・。それなのに死んじまいやがった・・・。どこまでも私に逆らいおって、生きる事まで私に逆らいおった・・・」
「医師の心臓が悪かった事を考えなかったのですか?」
一瞬、岡田が戸惑いを見せた。
「それは・・・。忘れておった・・・」
岡田の説明は何かが違っていると佐々木は思った。
岡田医師の心臓に疾患があれば兄の岡田が知らぬはずはない。やはり岡田医師の心臓に疾患はなかった。岡田は最初から岡田医師が死亡する事を考えていた。
「医師が亡くなった日から夫人が行方不明になる日まで、あなたが毎晩医院を訪れたのはなぜですか?」
「昔、私は役所の人間を買収して戸籍を偽造した。その事を証明する書面を幸一が持っていたからだ・・・」
「あれは戦後の事で、すでに時効ですよ」
「私にとって時効はない・・・」
「夫人に錠剤を飲ませた理由は?」
「あの女が幸一をたぶらかしたんだ。死んで当然だ。幸一を殺したと私を脅すから、法要の席の酒に混ぜて薬を飲ませてやった」
「夫人はどのようにして犀川へ行ったのですか?」
岡田医院から犀川までは歩いて十数分である。
「幸一たちの散歩コースだ。医院から犀川の堤防へ出て、堤防を下って川原を下流へ歩き、また堤防を登って住宅地をまわって帰ってくる幸一たちの散歩コースだ」
「婦人は独りで犀川へ行ったのですか?」
「・・・」
岡田は腕を組んで天井を見上げたが、肥満で腕を組めず、手が片方の肘を掴んだだけだった。
「法要の夜、夫人は独りで外へ出た。あなたは夫人を追った・・・」
「うむ・・・」
岡田は大きく溜息をついた。
「川原に着いた夫人はどうしました?」
「水際で倒れた。それで、幸一のもとへ行けるように、流してやった・・・」
「なぜ、大森春江にも錠剤を飲ませようとしたのですか?」
「八月二十九日の事を警察に話させないためだ・・・」
「あなたほどの方が、どうしてなんですか?」
佐々木の相手は人を二人殺した犯罪者である。だが、佐々木はなぜか敬意を払っていた。
「私にとって、家族は幸一だけだ・・・。他人には渡せぬ・・・」
「あなたには奥さんも、二人の弟さんもいるじゃないですか?」
「女房は親の借金の肩代りに嫁いできた女だ。私たちには子供はおらぬ。二人の弟は赤の他人だ。まともに話した事もない。幸一も他人だが、あいつだけは別だ」
「そうでしょうかね・・・」
「何だと?」
「養子は血筋は繋がりません。結婚は戸籍という形式で繋がっているだけです。
ですが、人は結婚すると、家族ができたと言います。夫婦の仲が険悪になると夫婦は、互いに他人だと言い争います。戸籍や家族は妙なものです・・・。
いや違いますな。人が自分の都合で戸籍や家族を使い分けているんですなあ・・・」
「何が言いたいんだ?」
「私は、あの錠剤を、誰が何の目的で開発したか、知りたいだけです」
「幸一が私のために作ったと言ったはずだ」
「本当にそうでしょうか?」
「・・・」
「岡田医師があの錠剤を安楽死に使った証拠があるんですよ」
「そんなはずがない!」
やはり岡田は、あの錠剤が安楽死の薬だと知っていたと佐々木は思った。
「なぜそう言い切れるんですか?」
「幸一があの薬を安楽死に使うと言ったが、私が止めたからだ。
過去に医院の医師が医療ミスをした。社会問題にならなかったが、後遺症の治療と損害賠償は大変なものだった。
当時、医院を受け継いだばかりの幸一が後遺症の治療をした。幸一は、医療ミスが起こった場合、何が生ずるか、充分に理解していた。だから薬を使うはずがない!」
「岡田医師は自分で錠剤を服用して、安楽死の試験をしていました。
その事を知っていましたか?」
「知らん!」
「そうですか・・・」
マジックミラーの別室で本間本部長は言った。
「相田にも来てもらいたかったが、多忙なので二人に来てもらいました・・・。
警視庁の尋問にも、岡田は同じように答えている。我々の推測と食い違っているのを、どう考えますか?」
松浪は言った。
「岡田は、安楽死の薬を開発した岡田医師が社会的に批判されないよう、全てを自分の記憶だけに留める気なんだと思います。岡田医師の家族として」
隣で理佐が頷いた。
本間本部長は取調室を見ながら言った。
「私や相田とは違う目的で、岡田はあの錠剤を公表しない方がいいと考えている。あなたたちは我々の目的に気づいているようだが、詳しい事を知りたければ、相田に聞いてください・・・・。
物的証拠がなければ状況証拠や証言だけでは真実を証明できない。これまで警察はこの事実を見て見ぬ振りをしてきました。
今後は新たな組織が警察機構を変えるでしょう。
その時は、二人ともまた協力してください・・・。
ところで、相田が、
『再婚する時は、あなたたちと私に、結婚式に出てもらう』
と言っていたが、相田にもそんな相手がいたとは知りませんでした。二人はその事を御存じですか?」
「えっ?」
理佐と松浪は思わず互いの顔を見つめた。
相田編集長が再婚するなら、相手は美奈さんに違いない・・・。
(了)
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