六 小料理小夜

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六 小料理小夜

 九月十五日、月曜日、夕刻、浅草。  言問通りの浅草三丁目のバス停から二筋北へ入った東西の通りに小料理屋は三軒あった。二軒は造作も真新しく、数十年来続いた店とは思えなかった。  言問通りと交差して南北に走る道幅の狭い車道と、この二筋目の通りが交差した信号のない交差点の北西の角に、小料理小夜の古びた看板がある。 「ここが一番可能性がありそうだ」  夕刻六時過ぎ。相田は縄暖簾がかかった小料理小夜の格子戸を開けて、その奥にある店の引き戸を開けた。 「おっ。凄いな」  小さな驚きが相田の口から漏れた。  相田の肩越しに店の中を見ると、堂々としたカウンターの内から、和服の女性が相田を見て、 「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいかしら?」 と親しげに微笑んでいる。  相田は何かに気を取られて、三人だ、と言ったまま入口付近から店の奥へ何度も目を馳せている。  理佐は松浪を見て頷き、相田の肩に手を乗せた。 「お父さん。何をそんなに驚いてるの?さあ、座って!」  肩を押されて、相田は思い出したように理佐をふりかえった。照れくさそうに頬を緩め、松浪を見て、 「今どき珍しいな」  と店の奥へ顎をしゃくった。 「そうですね・・・。最近はこれだけの物は手に入らないでしょう・・・」 「まあ、座ろうか。これだけで豪華な気分になれそうだな・・・」  これと言って特別な物があるとは思えない・・・。  理佐は二人の会話を理解できなかった。  相田と松浪はカウンターの中程の椅子に、通路ぞいの座敷を背にして腰掛けた。  二人に遅れた理佐に、店の女性は、 「こちらにどうぞ」  と笑顔で相田の横を示している。  女性は相田の両脇に理佐と松浪を座らせる気らしかった。 「娘さん御夫婦ですか?」  相田に語りかけながら女性はお絞りを手渡して理佐に、 「お父様でしょう?」  と笑顔を見せた。  女性は理佐より十歳ほど年上に見えた。細面の色白の顔は、厚かましさを一皮被ったような水商売特有の肥満が見られず、人を見透かして値踏みするような厭らしさもなかった。女性の笑顔と言葉につられて理佐は思わず微笑んで頷いた。 「何になさいますか?」  突き出しを並べる女性に相田は、 「二人にビール。僕は熱燗にしてくれ」  と言った。  相田は壁に並んだ品書きから肴を選んで注文し、 「店に入って、この欅のカウンターに驚いたんだ」  と話しだした。  理佐にカウンターの材質はわからないが、カウンター表面は絡んだ焦茶の木目に金色の粒のような点が浮び、手を触れればそれらが木目から浮きあがるように思えた。渓谷の澄んだ流れに、眩く陽光を反射する砂を見るようだった。 「最近は木を知る方が少なくなって、一目で欅とわかる方はあまりいないんですよ。  年配の方はご存知だけれど、若ければ、ねえ・・・」  女性は理佐を気づかうように微笑んで、相田の前に熱燗の銚子と杯を置き、理佐と松浪それぞれの前にビール瓶とグラスを置いた。 「それなら、僕はかなり年配ってことになる。いや、こりゃまいったな」 「そんなこと、ありませんわ。まだお若くて・・・。私より一世代上ってかしら・・・。  でも、欅をご存知の御歳ですわ」  女性は微笑みながら相田にお酌し、松浪の前のビール瓶を手に取った。 「女将と呼んでいいのかな?それとも、ママと呼べばいいのか・・・」  相田が女性に聞いた。 「私は若女将と言ったとこかしら・・・」  女性は松浪にお酌しながら相田に答えて松浪のグラスを満たし、ビール瓶を松浪の前に置くと理佐の前へ移動した。 「・・・でも、女将でいいですよ」  若女将は理佐に笑顔を見せて理佐の前からビール瓶を取った。そして、小さく瓶を持ち上げて見せた。  理佐は若女将の前にグラスをさし出した。  若女将は微笑みながらグラスにビールを満たし、ビール瓶を置くと、 「お肴をお出ししますね・・・」  と言って、手際よく肴を用意した。 「ずいぶん年季が入ってますが、これはどれくらい使ってるんですか?」  松浪はグラスを置くと、カウンターの木目にそって指を動かした。  若女将は三人の前に肴を並べながら、 「そうね。母の代の前からだから、六十年以上かしら。良い物は長持ちしますね・・・。 昔は建物もしっかりしていたらしいけど、建て替えたら、やっぱり、以前のような感じがないと言うんですよ・・・」 と梁と柱を指さして、 「・・・煤けてますけど、漆塗りなんですよ・・・。  ああ、そう言うのは女将の話です。  表通りが拡張するのでこちらに移ったのが昭和四十六年くらいかしら。その時、これだけはそのまま残したいって・・・。引越しの時を、私、はっきり覚えてます。三歳くらいだったわ・・・。あら!」  カウンターをじっと眺めて話した若女将は、瞬、顔を赤らめた。 「今でも趣がありますよ。これで不満なら、建て替える以前は豪華な造りだったんでしょうね。古い農家の梁なんか、全て欅を使ったのがあるから・・・」  松浪は、信州の民族資料館や郷土博物館として残っている、数々の建物を思い出した。柱も梁も全て欅だと説明された記憶がある。 「今度は、私に教えてくださいな」  若女将はふたたび笑顔で相田の前の銚子を手にした。相田の杯に酒を満たし、 「娘さん御夫婦?、それとも息子さん御夫婦かしら?」  と言った。 「そのどちらでもないよ。二人は婚約中だ」 「そうですか・・・。お父様はどちらの?」 「二人とも仕事上の部下だ。まあ、子供みたいな所もあるか・・・」  酒を飲み干した相田は松浪にビールを勧め、何を思ったか、もう一方の手で松浪の肩をぽんと叩いた。そして、向きを変えて理佐のグラスにビールを注ぎ、 「ありのままを話すさ・・・」  と呟いた。  松浪が箸で肴をつまみながら、 「ええ、どうぞ」  と言った。 「お仕事、何をなさっているのかしら?よろしかったら、教えていただけません?」 「僕らは新聞社に勤めてる。社会欄が専門だがね」 「新聞社の方がここに来るのは珍しいわ。この近くで取材がありましたの?」  若女将は理佐と松浪にビールをお酌しながら言った。 「その前に、すまんが、ビールと酒を二本ずつ頼む・・・」  若女将にそう言うと、相田はそれまでと変らぬ口調で何気なく話している。 「・・・実は、昔、この界隈に、小沼さんと言う方が居たと聞いたので探してるんだが、昔と違って何処がどうなったものやら、とんと見当がつかなくなったって訳だ。  そこで、今日は、まあ、一杯飲んで、明日に備えようかなんて考えてた・・・」  若女将は理佐と松浪の前にビール置き、 「小沼の何とおっしゃる方を、取材なさってるんですか?」  と言いながら銚子を二本、湯から上げて、いったん調理台の布巾に乗せて湯を切り、持ち直して相田の前に置いた。 「旧姓が小沼康子さん。結婚後は岡田康子さん。もう亡くなられた方だ・・・」  相田は杯を飲み干して、自分で酒を注ごうとした。 「あらっ、私が・・・」  思い出したように女将が相田の銚子に手を伸ばした。銚子を取ると相田の顔を見ながら杯に酒を注いでいる。 「その方を、どんな記事になさるの?よろしかったら、教えていただけません?」  若女将の顔から笑顔が消えている。言葉は穏やかだが、一言一言はっきり区切るように相田に話して、そのままじっと相田を見つめている。  理佐は、おやっと思った。  どう見ても、若女将が岡田康子の記事を知りたいだけで相田を見ているとは思えない。キラキラ光る瞳は何とも言えない憂いがあり、恋する乙女を思わせる輝きがある。まるで恋する若女将が相田の告白を待つかのようだった。 「僕らは日報新聞の土曜の社会欄で、過労死をテーマに特集を組んでる・・・」 「ああっ、あれ読んでるわ!いつも驚いてるの。ずいぶん多いんだなって。先週の土曜は長距離トラックの運転手だったでしょう。ここにはトラックの方は来ないけど、食べる量で疲れを癒すなんて、身体を壊すだけね・・・」  目を輝かせて語る若女将は間違いなく日報新聞の読者だった。先週土曜の朝刊に載った、長距離運転手の過労と食べ過ぎによる病気。若女将は全てを記憶していた。 「次の特集を考えていた時、この娘が、岡田幸一という医師の急死と、その一週間後に、岡田医師の奥さん・康子夫人の死を知った。一人の医師の過労死が、愛する夫を亡くした妻の死を招いた。  警察は医師の死を急性心不全で過労死に値すると見ているから、記事もそのように扱うつもりなんだが、どうも納得ゆかない・・・。過労死だけとは思えないんだ・・・」 「と言うと、何か他にも原因があるとお考えですの?」 「腑に落ちない点が沢山あるんだ。一番怪しいのが医師の兄だ。僕らはそう睨んでる。   いずれ、関係者が明るみに出るだろうが、僕らはその前に真相を知りたい。そうでないと・・・」 「そうでないと、どうなるのですか?」 「関係した人たち全員が警察の事情聴取を受けて、マスコミの取材合戦の的になるだろう。  そこまでさせたくないんだ・・・。  と言うのも、医師が亡くなってメリットがある者は誰もいなかった・・・。  だが、医師と夫人を恨んでいた者がいた。容疑をかけられるのは、その人物だけでたくさんだ。僕らはそう思ってる・・・。  いやすまん。妙な事を話してしまった。岡田康子さんの実家がわかればと思ったんだ。  何かわかったら、知らせてくれないだろうか?」  相田は若女将に名刺を渡した。  名刺を見たまま、若女将は顔を上げずに呟いた。 「相田さんとおっしゃるのね・・・。奥様はいらっしゃるの?」 「いや、いないよ。五年前に病死した・・・。過労死じゃないよ。  それが何か?」 「いえ、何も・・・。  でも、独身のほうが一生懸命になってあげやすいかな、なんて思ったらいけないかしら・・・」  相田は驚いて口をぽかんと開けたまま若女将を見た。 「あら、ごめなさいね。ちょっと母に聞いてみますから、しばらく、お待ちください。  お客が来たら呼んでくださいね。まだ、混みあう時間じゃないけど・・・」  そう言って、若女将はカウンターの内側から奥へ入っていった。  店の二階が住居になっているらしく、かすかに階段を上る音が理佐に聞えた。 「どう出るでしょう?」  松浪はそう言って眼鏡を浮かせ、目頭で鼻筋を指で摘まんでいる。これは何か考える時の癖なのだ。 「編集長もかなりね!容疑者はただ一人。岡田会長としか聞えなかったわよ!」 「少なくとも僕ら三人はそう思ってるんだから、今は正直に話した方がいい・・・。  岡田会長が康子夫人の実家・小沼一族と啀み合っていれば、若女将が小沼一族でなくても、近所の噂から何か聞けるはずだ・・・」  しばらくして若女将が戻った。 「女将が、母ですけど、お話をお伺いしますので、そちらの座敷へお移りください。お飲み物を運びますので・・・」  若女将はカウンターの潜りを抜けて、入口へ向った。引き戸を開けて、格子戸の外にかかった縄暖簾を店に入れ、入口の柱にかかった札から準備中の一枚を選んで外へ持っていった。格子戸を閉めて帰ってくると、引き戸を閉めて内鍵をかけ、照明をおとした。  座敷に座る三人に若女将は、 「私は大森美奈と言います。母は春江です」  と言った。  一瞬、相田の顔が失望の色に変り、座敷に沈黙が訪れた。  理佐は溜息つくように肩を落とした。 「何か事情があるから、女将が会うんだ。まだわからないよ」  松浪が理佐の膝に手を乗せて囁いた。 「そんなに緊張なさらないで、くつろいでくださいな。さあ、どうぞ」  言葉をなくした相田に、美奈は穏かな顔で酒を勧めている。  理佐は美奈の態度に毅然としたものを感じた。それは、何を知っていようと、時期が来なければどうしようもないと言うような意識の切り換えのようなものだった。 「取材は大変なんでしょうね?今回の話、もう記事になるんですか?」 「ええ、先生の方は一応・・・」 「やはり、過労死として、家庭欄に載るのね・・・」  理佐のグラスにビールを注ぎながら、美奈は意味ありげに言った。  店の奥でカタッと音がして白髪の婦人が現れた。婦人はカウンターの下の潜りを抜けて、ゆっくりお辞儀してから座敷に上がり、相田の正面に座った。 「本日は、よくおいでくださいました。女将の春江でございます・・・」  ふたたび深々とお辞儀した春江は、美奈から渡された相田の名刺を座卓に置いた。 「娘から伺いましたお話の他に、私からお尋ねしたい事が・・・」  言葉が途切れた。春江はじっと座卓の名刺を見ている。 「忙しい時にすみません。私は日報新聞社会部の編集を担当している相田です。この二人は部下の松浪と野村です」 「相田様は岡田康子の死と夫の過労死の他に、何かわかれば、それも記事にするとお考えですか?」 「それはあくまでも結果によります。刑事事件になれば、関係者に危害が及ぶ可能性もありますから、ただちに取材した情報を警察に渡します。  記事にするのはその結果を見てからです」 「そうでしたか・・・。  心当たりがあります。しばらく時間をいただけますか?」 「本当ですか!どれくらい時間が必要です?」 「明後日、水曜が定休日ですから、遅くとも水曜に・・・。  それ以前に、私から相田様へご連絡さしあげるかも知れません。  その時は、時間と場所を私に指定させてください」 「ええ、もちろんです」 「それでは、その時に・・・。  今日はゆっくりしていってください」  春江は三人にお辞儀した。美奈に、 「皆様に失礼のないように・・・・」  と言い残してその場を立った。
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