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いま、このとき、この世のことわりはすべて彼女のためにあった。
人の可聴域は彼女の声を聴くためにこの周波数帯になったのだろうし、この場の人間には五感以外に彼女を感じるための感覚器官がそなわっているとも思う。いま、その感覚器官は歓喜に震えて、それが全身に伝わっていく感覚を覚える。
言葉はいらない。いまは彼女のつむぐ以外の言語は意味を喪失している。わたしの声だってたんなる雑音にしか聴こえないはずだ。
みなぎる、楽しいという感情にまかせてわたしはかき鳴らしつづける。
わたしがこんなに楽しんでいるのに、彼女の声には楽しさがない。生まれたての太陽がはじめて光を放ったときのような、あどけなくも真剣な響きだ。
この歌に込められた思いを想起すれば楽しそうになんて歌えはしないだろう。
それは、再生を祈る聖女の叫びにほかならなかったから。
ベースの最後の一音が低く長く尾を引いて、やがて完全に消えてなくなったとき、そこに、喝采なんて起こらなかった。
演奏が終わったことにも気づいていないような静寂が辺りを包んでいる。わたしはあがった息を整えながらまぶたを落としてこの余韻に浸っていた。
この感覚は真なる芸術に触れた人間のものに近い。人を惹きつけてやまない絵画を目前にした反応だ。
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